富樫永理奈さんの読書感想文作品「ことば探しの旅に出よう」

思わずくすっと笑ってしまった。辞書で「んぼう」をひいた人は私のほかに何人いるのだろう。そう考えたら、わくわくした。

初めて辞書の序文を読んだ。そして、初めて辞書の最後に載っている言葉をひいた。こんな風に辞書と向き合ったのは初めてだ。辞書は、必要な時にだけ持ち出す。今まで、私にとって、学習道具のひとつにしかすぎなかった。しかも、最近は、スマートフォンで簡単に調べることもできる。辞書を持ち出す機会すら少なくなっていた。

夏休みを前に、どんな本を読もうかと迷っていた時、三十年前に他界した曾祖父のことを考えていた。無類の本好きで、たくさんの本を遺していった曾祖父に訊いたら、どの本を薦めてくれるだろうか。母は、生前の曾祖父に薦められて読んだ本を今も大切にしている。絵本から小説まで、年頃に見合った作品を選んでくれていたそうだ。私もそれらの本を読んで育ってきた。家族にとって本のコンシェルジュともいえる曾祖父の愛読書は何だったのだろうか。母から聞いて驚いた。『広辞苑』だった。家にいるときは、いつも『広辞苑』を膝の上に乗せて、永遠に終わりがないかのようによみ続けていたらしい。私も膝の上に『広辞苑』を乗せてみた。ずっしりとした重量感。こんなに大きくて重い小説はない。『広辞苑』をよむとはどういうことだろう。

『広辞苑』は辞書だから、小説を読むように読むものではなく、情報について調べるものだ。言葉の意味を最大限に引き出すために、『広辞苑』を使いながら、考える。その行為を「読みながらよむ」とこの本では表現されている。いろいろなことばを知ることによって、いろいろな世界を知ることができる。「ことばは世界をのぞく窓」という表現が強く印象に残った。ことばを通じて、日本の歴史や文化を辿ることができるのだ。

その案内人は編集者だと思う。今まで、辞書には感情がないと思っていた。いや、感情があるのかどうか、考えたことすらなかった。しかし、相当な情報量を検証し、二十五万もある項目を簡潔に分かりやすく辞書に収める努力は並大抵のものではないだろう。『広辞苑』の重さは、歴史と努力の重さだ。人から人へことばによってつながれてきたそれらの尊さを感じずにはいられない。長年受け継がれてきた知識によって、ひとつのことばの窓から、別のことばの窓へと誘導される。文例には夏目漱石をはじめとする文豪の作品が多く使われているので、ことばの窓を飛び出して別の本と出会うこともできる。

『広辞苑』は他の語との兼ね合いを大切にし、自分が調べた項目から他の項目を参照するように丁寧に導いてくれることが分かった。その導きに従って語の連鎖を追いかけることは、まるで旅に出るようだ。行きたい場所に行くことは当然楽しいが、知らない場所に連れて行ってもらえることほどわくわくするものはない。

私が『広辞苑』をよんでいる瞬間にも次なる辞書の編集は休みなく続けられている。歴史が塗り替えられていく毎日の中で、私たちは自分の思考をことばで表現しあい、今日の出来事をことばで伝えあう。そんな中で、新しいことばが生まれ、定着していくものがあるだろう。十年後にはさらに一万語ほどの新しいことばが辞書に加わり、意味が広がったことばに対する語釈が追加されるのかもしれない。宇宙で星が生まれたり、消滅したりするように、言語も生まれたり、消滅したりする。日本語全体を宇宙にたとえるならば、辞書はその宇宙をバランスよく反映した小宇宙だという。そのバランスを保証するために、複数の編集者によって編集が行われている。今日、私たちが使っていることばが、個人的な言語使用ではなく共有される言語として定着するのかどうか、複数の人が長い時間をかけて検証していかなければならない。日常の言語生活でよく使われる語を見出しにすることが基本的な方針といえるそうだ。

今、世界中で新型コロナウイルスが猛威を振るい、世の中が混乱している。毎日毎日、この名前を聞かない日はない。未来の『広辞苑』に新型コロナウイルスの見出しはあるだろうか。近い将来に終息して見出しにならないか、それとも、かつて世の中を恐怖に陥れた歴史の証人として見出しになるのか。後者であれば、新型コロナウイルスが過去の感染症となり、未来では恐れることのない病気であると記されてほしい。

次の『広辞苑』が出版される未来には、どういう歴史や文化が加わるのだろう。明るく前向きな時代が記されることを願ってやまない。終わりなきことば探しの旅は、未来へ続く希望の道。曾祖父はどんなことば探しの旅を楽しんでいたのだろうか。私はこれからも『広辞苑』をよみ、ことばの窓から広い世界をのぞき続けていきたい。

(第66回青少年読書感想文全国コンクール文部科学大臣賞作品)