友達や同級生と自分を比べてしまい、「自分はダメだ」と落ち込むことはありませんか。他人と比べるのをやめたいと思っている人もいるでしょう。明治大学教授の齋藤孝先生は「ひとつの価値観だけで人と自分を比較するなんて意味はない」「評価の基準を、自分で意識的に変えていくこともできる」と言います。齋藤先生の10代に向けた新刊『本当の「心の強さ」ってなんだろう?』の中から、アドバイスを紹介します。

「同じ基準」で人とくらべることに慣れすぎていない?

日本人は、ほかの人と同質であることに安心しやすいところがあります。

そのため、単一の価値基準のなかで「こうしなければいけない」とか「こうでなければいけない」と、自分を規定してしまいやすいのです。

その価値基準だけでほかの人とくらべて、「自分はうまくいってない感」「自分はダメだ感」をいだくので、劣等感へと直結しやすくなってしまう。

実際、きみたちの日常も、みんな横並びの感じで、まわりを見ながら暮らしている、という状況が多いのではないかな?

 

同じ基準でくらべてばかりいる環境のなかにいると、それが当たり前になります。

むしろ、そうしないと不安になります。

ひとつの価値基準のなかに自分を押し込めるようになりがちなので要注意です。

「まわりがみんな新しいSNSを始めたから、自分もやらなきゃ」

こんな発想で、とくに発信したいことがあるわけでもないのに、人がやっているからとやりはじめても、そのうち苦しくなってしまいます。

同じことを同じようにやろうとするから、差があらわれ、うまくいかないことに悩んだりするのです。

みんながやっていても、自分には合わない、必要ないと思ったら、やらない。そこにだけ価値を見なくてもいいわけです。

 

 

日本で暮らしている外国の人たちが登場して、それぞれのお国事情を話すテレビ番組があります。

「美しさの基準」も「モテる人の基準」も「優しさの基準」も、文化やお国柄によってじつにさまざま。世の中には本当にいろいろな価値基準があるということを教えられます。

「なんだ、自分は日本ではモテないけど、あちらのお国に行ったらモテモテだな。この容姿にとらわれているなんてバカらしい」

そんな気分になってきます。

ひとつの価値観だけで人と自分を比較するなんて意味はないとわかれば、「同じでないとおかしい」とか「こうでなければいけない」という凝り固まった意識にとらわれなくなります。

失敗だと思うことも、全然失敗じゃない、ということも普通にあり得る。

価値観が多様にあるって、そういうことなんです。

 

「価値基準というのは、さまざまなものなんだ」と実感することが、一面的な見方から脱することにつながります。

クウェートに留学していた経験をもつ学生が、こんなことを言っていました。

「クウェートはいろいろな人種のひとがいるし、宗教・文化もさまざまなので、考え方が本当にバラバラ。それぞれの価値基準が違いすぎて、くらべようがないんです。

向こうに行ったときはそういう環境に驚きましたけど、日本に帰ってきたら、なんだかひとつの価値観にこだわっている日本人のほうが異常なのかなと思えてきました」

違う世界を知ると、受けとめ方も違ってきます。

ひとつの価値観にしばられないことが、いまの時代はすごく大切です。

「価値の多様性を受け入れる」ことが、世界的に重要視されているからです。

「みんな違って当たり前。どの価値観も受けとめよう」

こういうメンタリティが、いま、ものすごく必要とされているのです。

価値観はどんどん変わりゆくもの

もうひとつ、みなさんに覚えておいてほしいことがあります。

それは、ある時期「非常に価値が高い」と感じ、その資質をもっていないことに劣等コンプレックスを感じるようなことがあったとしても、その価値観がずっとつづくわけではない、ということ。

わかりやすい例を挙げれば、「足の速さ」がすごく重要なのは子ども時代だけです。

小学校のころは、足が速い子は人気があります。だから、「足が速いか遅いというのは、自分の価値を決める要素だ」くらいに思うものです。

しかし、中学に入るとそれがだいぶ薄れ、高校生になると、足の速さが問題になるのは陸上部や運動系の部活の人だけ。それ以外の人は興味がなくなります。

大学生になると、足の速さどころか、だれが運動神経がいいか悪いかも、ほとんど話題になりません。

社会人になったら、仕事の速さは求められますが、足の速さはまったく関係ありません。価値があると感じるものは、年齢によってどんどんうつり変わっていきます。

 

流行によってもどんどん変わります。

中高生にとって大事な、眉の太さも、前髪のスタイルも、「これがいい」というのはそのときの流行でしかありません。

制服のスカートの長さも、ズボンの腰ばきも同じ。

20年くらいしてから写真を見ると、

「なんであのころは、これをかっこいいと思っていたのかなあ」

などと思うものです。

そのときはとても大事なことだと思っていても、流行りすたりは変わるし、自分の心情も変化していきます。

 

江戸時代から明治時代にかけては、それまで大切にしていた価値観がめざましく変わった時期です。

いまの時代から見れば、武士のちょんまげというのは、じつに妙なヘアスタイルです。しかし、あれを当時はみんなかっこいいと心底思っていたわけです。

新一万円札の肖像として使われることになったり、大河ドラマになったりと、最近、渋沢栄一(1840~1931年)が脚光を浴びていますが、渋沢はいちはやく断髪した人物でした。

慶応3年(1867)、パリで開かれる万国博覧会に、幕府の代表として将軍・徳川慶喜の弟、徳川昭武が派遣されます。このとき、随行員のひとりとしてヨーロッパに行った渋沢栄一は、向こうでちょんまげを切り、洋装に変え、その姿を写真に撮って誇らしげに妻に送りました。

ところが、奥さんはまげを切ったその姿を「あさましき姿」と嘆いたといいます。

「あまりにも見る目も辛いお姿です。どうか、元のお姿に戻ってください。なぜ、あなた一人がそういう格好なのですか?心が痛みます」

と言ったという話があるくらいです。

何を「いい」と思うか、どんな姿を誇らしく思うかは、文化圏によってさまざま。

それも、時代が進めば人の感じ方は変わる。

価値感、価値基準とはつねに変わっていくものなのです。

評価のものさしはひとつじゃない

評価の基準を、自分で意識的に変えていくこともできます。

それを実践していたのがイチロー選手です。

打率もよかったんですが、「自分は、打率よりもヒットの数に価値を置きたい」というのがイチローさんの考え方でした。

打率を気にして「打率を上げる」ことに価値基準を置くと、三振なんかしないほうがいいわけです。振らないほうがいい。

もっと言えば、調子が悪かったら、打席に立たないほうがいい。

積極的にチャレンジしないほうが安全だ、ということになっていきます。

イチローさんは、大事なのは打率よりもヒットの数だ、と考えていたんです。

ヒットをたくさん打つためには、つねにチャレンジ精神をもって臨む必要がある。早めのカウントで、いい球をどんどん積極的に打とうとすることで、バッティングが積極的になる、そう考えて、年間どれだけヒットを打てるかを自分の評価基準にしたんです。

メジャーリーグで10年連続200本安打を達成。年間262安打という約100年ぶりの前人未到の記録も残しています。

イチローさんのすごさというのは、人がこれまであまり意識していないことを意識し、それを自分のなかで評価の基準として設定して、モチベーションを上げることに活用していったところにもあるとぼくは見ています。

 

価値基準とは多様なもの、「評価のものさし」というのは、ひとつだけじゃないんです。

欧州サッカーリーグでも活躍、現役を引退した内田篤人(1988年~)さんが解説をしているときに印象に残った言葉があります。

「『うまい』って、選手としての一要素、ひとつの要素でしかない」

「日本人ってどうしても、『うまいから活躍できる』って思いがちだけど、そういうわけでもない」

ヨーロッパでもまれた経験をもつ内田さんは、「うまい」も評価のひとつの軸にすぎなくて、ほかにも「速い」とか「強い」とか、5つか6つくらいの評価軸があって、総合的な力をつけて選手としての厚みをつけていかないと太刀打ちできない、というようことを話していました。

たしかに、日本では「うまい」と言うと、最大級の賛辞という感じになります。

しかし、「うまい」というのも評価のものさしのひとつにすぎないと考えると、評価基準がより自由に、幅広くなります。

ものは考えよう

「うまい人にはかなわない」

ぼくらはこう思いがちです。

しかし、「うまい」というのも評価のものさしのひとつにすぎないと思うことで、「うまくない」人も活路を見いだすことができます。

たとえば、絵を描く。

うまいへたが一目瞭然になるので、うまくない人は「絵は苦手」となりやすいです。

でも、うまくないけれど魅力的な絵というのもあります。

「うまくないけど。色使いに独特のセンスがあるよね。なんだか惹かれるなあ」

みたいなことがあるものです。

こういう人は、色彩感覚を自分の評価のものさしにすればいいのです。

「描写する技術力はありません。でも色彩感覚はシャガールのようだといわれます」

こうなると、絵が苦手だなどと思わなくなります。それどころか、自信がわいてきます。

 

ぼくもこれを実践しています。

卒業生と一緒にカラオケに行くような機会がありますが、みんな歌がうまくて、80点台、90点台を平気で出す。

ぼくはうまく歌えたと思っても、60点台がいいところ。

しかし、あるとき気づいたことがあります。総合点は高くないんですが、音程とか、リズムとか、採点基準の個別ポイントのなかで、ぼくは「抑揚」だけはいい点が出るんです。

総合的な歌のうまさを張り合っても勝負にならないので、

「ぼくは抑揚の鬼だ、抑揚で勝負するよ」

と言って、どんな曲を歌っても、抑揚だけは高得点を出すことを意識して歌うことにしたのです。

抑揚だけはだれにも負けない。

胸を張れるところがあるから、カラオケに苦手意識をもたなくて済むのです。

 

自信のもてないことのなかにも、何かよいところ、肯定できるところをみつけられれば、苦手意識とか劣等コンプレックスとかを感じなくなります。

その場、その状況のなかで、自分自身に何か〇をつけられるようにするわけです。そういうものをたくさん見つけ出す。

幸せとは、自分が快適でいられることです。

価値基準をいろいろもっていると、快適でいられる状態がふえていきます。

 

齋藤孝『本当の「心の強さ」ってなんだろう?』

 メンタルの強さとは、生まれもった資質ではなく、自分で身につけていく「力」です。 「持って生まれた性格だから……」とあきらめる必要なんてありません。この本では、齋藤孝先生が10代のために、ストレスやコンプレックス、失敗、挫折、逆境、後悔など身近な例を挙げながら、メンタルを強くするためのものの考え方と対応方法を教えてくれます。(240頁、1430円=税込)