10月20日のプロ野球ドラフト会議でDeNAから5位指名を受けた細川成也(茨城・明秀日立3年)。中学時代は無名だったにもかかわらず、高校で通算63本塁打をマークするスラッガーへと大きく飛躍した。その陰には名将・金沢成奉監督との出会いと、地道にこなしてきた日々の鍛錬があった。(文・写真 小野哲史)
武器は打球の飛距離
中学までは目立った実績はない。「好きなバッティングを金沢監督から教えてもらいたい」と明秀日立に進んだのが、ターニングポイントになった。金沢監督はかつて光星学院(青森・現八戸学院光星)で坂本勇人(巨人)らを育てた名将だ。「監督から『下半身を使えないとダメだ』と教えられ、冬季の走り込みからフォームの見直しまで徹底的に取り組みました。素振りは1日1000本。ティーバッティングもたくさんやりました」
2年の春にベンチ入りを果たし、チャンスを確実にものにしていく。「自分の武器は打球の飛距離」と言うように、181センチ85キロの恵まれた体格を生かした豪快なスイングでホームランを量産。3年春の高校野球フェア(岐阜県高野連主催の練習試合)では6試合で5本塁打をマークし、一躍注目されるようになった。
二刀流の大黒柱に成長
3年生になるころ、細川は外野手から投手に転向。「本格的に投手をやるのは小学生の時以来」だったが、速球を投げることには自信があった。中学3年の時、ジャベリックスロー(やり投げ)でジュニアオリンピックに出場し、当時の大会記録を更新して2位に入るなど、肩が強かったからだ。
ただ、当初はコントロールに苦労し、先発した春の県大会2回戦でまさかのコールド負け。その後、1日200球近い投げ込みやシャドーピッチングで制球力を磨き、最速146キロを投げる本格派右腕としてエースの座を確固たるものとした。
今夏の県大会で主軸打者とエースという「二刀流」でチームをけん引したが、決勝で常総学院に0-1で敗れた。「甲子園を目標にしてきたので本当に悔しかった」と話すが、これまでの高校生活で得たものは多かったという。「監督からはいつも『日々の生活が野球に出てくる』と言われていたので、あいさつや勉強など、学校や寮での過ごし方を普段からしっかり意識してきました。おかげでメンタルも磨かれたように思います」
卒業後はプロの世界へと飛び込む。「できるだけ早く1軍に上がり、日本を代表する4番バッターになりたい」
- 【ほそかわ・せいや】
- 1998年8月4日、茨城県出身。小学3年時に北茨城リトルで野球を始め、磯原中時代は福島のいわきシニアに所属。憧れの選手は日本ハムの中田翔。2学年下の弟・拓哉も明秀日立でプレーする。181センチ85キロ。右投げ右打ち。