北木悠汰さん(3年)は、投手として甲子園出場を夢見て、親元を離れて強豪校・海星高校(長崎)に進学した。だが、けがが原因で選手を続けることを断念した。新たに見つけた夢は「審判」として試合に出場することだった。(小野哲史)
「甲子園に出たい」親元離れ長崎へ
強い高校に入って、甲子園に出場したい。それは、北木さんが野球を始めた小学1年生の頃から持ち続けてきた夢だった。
広島の親元を離れ海星高校に進学したのも、「ここでなら夢をかなえられそうだ」と感じたからだ。入学後は「練習内容の質が高く、短時間だけどとてもきつい」と、厳しい中でも充実感を得ながら毎日を過ごしていた。

けがで思うように投げられず
しかし、1年目の秋、左膝と足首を痛めてしまう。けが自体は年内に完治したが、実戦練習が増えていく翌年2月頃に違和感を覚え始めた。投手としてコントロールのよさや緩急をつける投球術に定評があったが、久しぶりに投球を行うと「思うように投げられなかった」と振り返る。
「マウンドからホームまで届かなかったり、普通のキャッチボールができなかったり。思い通りにプレーができなくなる『イップス』のような感じで、今まで当たり前にできていた動作ができなくなって、落ち込みましたし焦りました」
マネジャーに転向
3月の練習試合では「ストライクを取れずに試合を壊してしまった」。その時、「もう無理かな。野球部をやめようかな」という思いが頭をもたげる。
そんな折、山崎優也投手コーチから「せっかく長崎に来たんだし、裏方として残ってくれないか」と言われ、マネジャーへの転向を決めた。
審判は「間近でプレーが見られる」
同じタイミングで審判の勉強も始めた。中学3年生の時、3歳下の弟の試合で審判を手伝った経験がある。「間近でプレーが見られる。自分も選手だったので、次に何が起こるかを考えながら動けるのが楽しかった」という記憶が、「また審判をやりたい」という思いとなって再燃した。
「審判の勉強は独学で始めました。試合中の動きやフォーメーションなどをYouTubeで見たり、ルールブックでルールを学んだり。選手だった頃は全く知らなかったルールも結構あって難しいですが、新しい知識もついて楽しいです」

審判として公式戦デビュー
部内の練習試合などで審判の経験を積みながら、今年2月には県高野連が主催する審判講習会にも参加。これにより公式戦で審判を務められるようになり、春季県大会で二塁塁審として審判デビューを果たした。
「いつも見ていた風景の中に自分が入っていたので現実味を帯びていないというか、ふわふわした感じはありました。でも、判定は冷静にできたと思います」

夏の県大会では塁審を5試合任された。「審判の判定一つで試合の勝敗につながる場面も多々あるので、責任感を持ってやらないといけません。その分、達成感もあります」と、試合を重ねるたびに学びややりがいも増えているという。
野球部部長の濵﨑紀充先生は、北木さんを「責任感が強く、いろいろなことに対して広い視野を持ってコツコツ努力できる生徒」と高く評価する。
公平なジャッジを大切に
審判を「高校卒業後も続けていきたい」という。信念は「両チームや見ている人たちから信頼されるために、公平なジャッジを大切にする」こと。
審判には冷静さが不可欠だ。「試合前のあいさつが終わってプレーボールを迎えるまでは、塁審だったら走って移動し深呼吸する」というルーティンで気持ちを落ち着かせている。もちろん、「間近で野球を見られる楽しさ」はこれからも追い続けるつもりだ。
- きたき・ゆうた 2007年4月6日、山口県生まれ。広島市立古田中卒。小学校1年生の冬から地元クラブの鈴が峰レッズで野球を始めた。中学時代に在籍した広島中央リトルシニアではエースとして全国選抜野球大会に出場。