私はこの夏、福島県浪江町を訪れ、5日間滞在しました。福島第一原子力発電所があった双葉町に隣接しており、東日本大震災後には町の大半が帰還困難区域になった場所です。震災から11年がたった今、実際に目にした被災地の現状を紹介します。(高校生記者・あかり=2年)
初めて目にしたモニタリングポスト
父が働く会社で福島復興に関するインターンが行われ、私は学生と一緒に参加しました。浪江町には父と車で向かいました。常磐道を走行中、路肩に「放射線量を示すモニター」が設置されていて驚きました。

浪江町内にも、公共施設のいたる所にモニタリングポストと呼ばれる放射線量の測定機器が置かれています。
町中を少し歩くと、帰宅困難区域を表す看板を目にします。

看板から先には立ち入れず、ガードレールや柵で道は完全に封鎖。この区域の奥にある家は震災当時のまま。崩れかかっていたり、ツタに覆われていたりする家もありました。

波打つ体育館の床
震災の記憶や教訓を伝えるために、倒壊した建物を取り壊さないで保存する「震災遺構」。浪江町の請戸(うけど)小学校もその一つで、震災当時のままの建物を一般公開しています。
校舎内の物は津波の威力で全て内陸側に押し寄せられており、1階部分の壁はほぼ全て消失していました。

体育館の床も大きく波打っています。舞台上は卒業式用に準備がされていた状況に、突然日常を奪われたことを突きつけられ、心が苦しくなりました。

「過去を忘れないこと」ができてる?
震災当時双葉町に住んでいた方の「震災は終わらない」という言葉が深く心に残っています。偶然にも私が福島にいる間に、立ち入り規制が緩和された地区があり、確かに復興に向かっています。でも「終わってはいない」ことを忘れてはいけないと思っています。町中にはまだまだ人も少なく、放射線量が日々計測されています。東京ではありえない非日常が浪江町では日常でした。

新しいものに目がいきがちなネット社会の現代。芸能や政治の話題など、最新のニュースを受け止めるのに精いっぱい。私たちは「過去を忘れない」ことをできているか、今一度振り返る必要があると現地に行くことで感じました。