台北にある日本語のデイケアセンターでお年寄りと交流し、話を聞いた(右から3人目が松本さん)

台湾には日本語を流ちょうに話す70代後半から90代のお年寄りの方がいます。日本統治時代の台湾で教育を受けたためです。教育を受けていたのは、ちょうど私たちと同じ年齢のころです。同時に、苦しい戦争の時代も経験しています。台湾に留学中の私は、そんな日本語世代の方々に学生時代や戦争中の話を聞くことで、教科書には載っていない戦争の姿を知ろうと思いました。
(高校生記者・松本歩純)

 私は今年4月から1年間の予定で、台湾の高校に留学しています。留学の目的の一つは中国語を習得することですが、親日で知られる台湾の文化や、かつて日本が統治した歴史にも関心がありました。今年が戦後70年ということもあり、台湾の視点から見た戦争について知りたいという思いもありました。

 そこで、台北にある玉蘭荘という日本語のデイケアセンターと、日本語世代の方が集まる友愛会というグループでお話を伺いました。

「日本人」として過ごした青春時代

当時は台湾の人も「日本人」として、国語や数学だけでなく修身と呼ばれる科目で、人となりや礼儀を徹底的に教えられたそうです。日本人の先生に教わり、同級生にも日本人がいて、自分自身も日本人だと思って育ってきたという人がほとんどで、「私は日本語で学び、日本語で育った」「私の母国語は日本語」と話す方もいました。

 また、「先生は厳しいながらも日本人と台湾人を分け隔てなく熱心に教えてくださった」と何人もの方が話す通り、今でも恩師を慕い、当時の同級生と同窓会を開いたり、日本と台湾を訪ね合ったりしているそうです。

 このように青春時代を「日本人」として過ごし、学んだ台湾の人は、日本に対して強い思いを持っています。「私を育て上げたのは日本」「日本の教育を受けられて感謝している」と話す方、「日本を愛することは、決して日本人にも負けない」と涙ながらに語ってくれた方もいました。

激しさ増す空襲 勉強どころでなく

しかし、当時の学生生活と戦争は切っても切れないものでした。学生は勉強だけでなく、軍服を縫う、軍隊を慰問する、飛行場の建設をするといった役割が求められました。学徒兵として厳しい訓練を受けることもありました。

 多くの方が「終戦間際は空襲が激しくて勉強どころではなかった」と言います。台北大空襲(1945年5月31日)をはじめとする空襲で、台湾全土が飛行場、工場、港を中心に爆撃され、多くの台湾の方が亡くなりました。また、台湾人も「日本兵」として軍に志願したり、召集されたりしたそうで、「私の親類は日本兵として戦地の第一線で戦い、帰ってこなかった」という話も聞きました。

 戦争が激しさを増す中で、生活はだんだんと苦しくなっていき、生活用品や食料は配給になりました。しかし、日本人と台湾人では配給の量に差があり、台湾人がもらえるのは日本人の半分や3分の1だったそうで、日本人以上に苦しい生活を強いられました。

戦争体験者の話 私たちこそ聴くべき

当時、今の私と同じくらいの年だった方に話を聞くことで、私にとって「歴史」の出来事の一つだった「戦争」が、ぐっと身近でリアルなものとして捉えられました。

 台湾でも空襲があり、多くの方が亡くなったことや、日本兵として出兵した台湾の人がいることを、今回初めて知りました。日本では台湾の統治に関して、インフラや教育の普及が進んだことなど「功」の部分が語られることが多いのですが、その一方で、多くの台湾の人たちが苦しんだり傷ついたりした「罪」の事実があることをもっと知る必要があると思いました。

 戦争を体験した方の話を聞ける時間は本当に残りわずかです。同じことを二度と繰り返さないために、戦争について知り、「歴史」ではなく「現実」のものとして受け止め、考える。それが、これからの日本や世界を担う私たち若者がするべきことではないでしょうか。