秋吉君の弁論原稿「陽の差す方に向かって」

人は目標を見失ってしまうと、進む方向が分からなくなってしまい、無気力のまま惰性で日々を送ってしまうことがあります。高校一年の冬、私はそうでした。高校に行くことも楽しくなく、ゲームに没頭していたのです。 

そんな時でした。母から「ハンセン病回復者の方と話をしてみない」と言われました。体が小さいことから差別を受けたことのあった私は、話を聴いてみたいと思い、島根から片道六時間の熊本県にあるハンセン病療養所へ行きました。朝五時、マイクロバスに乗り込むと、一寸驚きました。多くの同乗者の方がご高齢で、十代から二十代は私一人だけだったからです。療養所に着いたのは、昼を過ぎたあたりでした。療養所に入った私は、ハンセン病回復者の方に出会いました。その方はそっと椅子に腰を下ろすと、ゆっくりとした口調で話し始めました。強制隔離によって、家族と離ればなれになってしまったこと。ハンセン病の病原体は、感染力が極めて弱いこと。解明されたにも関わらず、隔離政策はなお続いたこと。そして何よりひどい、世間からの冷たい視線や偏見があったこと。本当は辛いはずなのに、一つひとつ丁寧に語ってくださいました。

「死んでもなお差別される」これは差別を受けた方の言葉です。一つの歴史が、人々から忘れられようとしているのです。また、幼いころから療養所にいた、あるハンセン病回復者の方が、「私は毎日が幸せだった」と言うのを聞いて驚きました。それは、療養所の中は差別がない環境だったからで、差別のある外の世界にいるぐらいなら、今が幸せだというのです。私はお話を聴いて、「無知とは、こんなにも恥ずべきものだったのか」と思いました。中学生のときから、ハンセン病について知っていたにも関わらず、浅い情報だけで、全てを知っているつもりになっていた自分が、恥ずかしくて仕方ありませんでした。

今や、ハンセン病は飲み薬で治せる時代となりました。日本国内で、ハンセン病という病で苦しむ人は少なくなりましたが、差別がなくなることはなく、多くの人が誤解や根拠のない恐れからくる偏見に苦しめられています。療養所を囲んでいた2mの塀は取り壊されても、過去の隔離政策や差別は続き、家族と会えないまま亡くなられた方が、納骨堂にはたくさん収められています。「死んでもなお差別される」「死んで煙になって、初めて地元に帰ることができるのだ」というこの言葉は、改めて今なお消えない、あらゆる「差別」というものの存在を実感させられるものでした。療養所の壁はなくなっても、人の心に根づいた厚くて高い壁は、今も残っています。目に見えない壁が、今もなお立ちはだかっていることは、本当におかしいことです。私は、差別や偏見がかつての私と同じように、無知からくるものだと考えています。知らないから恐れ、知らないから逃げる。そして、見えないものに怯え、どんどん周囲の人を傷つけてしまうのです。

それ以来、自分に何ができるのだろうかと考えてきました。ぼんやりとですが、暗いトンネルの中に、一筋の光が差してきたように思え、自分の進む道が見えて来るような気がしました。高校に行く意味が分からないと行くのをやめ、心を閉ざしていた自分は、もういませんでした。ハンセン病に関しては、本を読んで正しい知識を身につけ、自分が知っていることを周囲に伝えることをしてきました。さらに、「島根県藤楓協会の里がえり事業」という取組みを見つけました。県外の療養所に入所された方々が、再び故郷の島根に帰って来ることができるようにするのです。私はこの事業に参加してきました。道のりはまだまだ遠いですが、この取組みを続けていこうと思います。

今年、私は地元の市が企画する、文化交流事業でタイの国を訪れます。自分に何ができるのか自分を見つめ直し、もっと未知の世界を知りたいからです。無知から生まれる差別がこの世から消えるように、今回の経験を活かし、将来は、母と同じ教育の道に携わりたいと思います。私の進む方向は確実に前が見え、高校に通う毎日が楽しくなってきました。これからは迷わず、自分につけられた名前のように、常に陽の差す方へ向かって進んで行こうと思います。