第71回全日本バレーボール高校選手権(春高バレー)決勝が1月12日、武蔵野の森総合スポーツプラザで行われた。男子は、6年ぶりに出場した東山(京都)が駿台学園(東京)を破り、初優勝を遂げた。チームの武器は、組織的なディフェンスと全員攻撃。エースで主将の高橋藍(3年)とセッターの中島健斗(3年)との鉄壁なコンビネーションで優勝に導いた。(文・田中夕子、写真・中村博之)

言葉にしなくてもお互いの気持ちは通じていた。

初優勝まであと1点。マッチポイントの東山、セッターの中島は最後の1点を誰で取るか。心に決めていた。

「レギュラーでやってきた3年は2人。最後はキャプテンでエースの藍に決めてほしかった。ブロックが何枚ついても持って行くと決めていました」

セッターの中島健斗

もちろん高橋も同じ気持ちだ。セッターとリベロ以外の4枚攻撃を常とし、多彩な攻撃陣が揃う東山だが、最後の1点は自分に託してほしい。

「自分で決めきって、優勝の実感が生まれる。誰もがあの場面で僕に上がってくるとわかっていたし、僕も自分に上げてくれ、と思って(攻撃に)入りました」

キャプテンでエースの高橋藍

初めは息合わず…ケガのリハビリ乗り越え

2年生の頃から共にレギュラーとしてコートに立ったが、最初はなかなかコンビプレーの息が合わず、お互いを活かしきれなかった。

練習を繰り返し、ようやく高さと速さが活かせるコンビが組めるようになった矢先、中島が練習中に右肩を負傷。肩を上げることもできず、少しずつ回復してもサーブを打つ時には痛みがあり、リハビリに3カ月近くを費やした。

ケガのリハビリを乗り越えた中島

中島がセッターとして試合に出られない間は、昇陽中の後輩で共に全国制覇を成し遂げたリベロの荒木琢真(2年)がセッターを務める中、高橋も週に2回のウェイトトレーニングで筋力をつけ、パワーを養い、技を磨いた。

中島が復帰を果たしてからはより一層コンビネーションに磨きがかかり、どんな状況からでも攻撃を展開できるように実戦形式の練習を繰り返し、エースとセッターとして信頼関係を高めてきた。

「守備にも自信」高橋の強みを生かし

中学生までは身長が低く、リベロの経験もある高橋は守備にも自信がある。相手チームからすれば、より警戒するアタッカーをサーブで狙い、少しでも攻撃に入るタイミングを遅らせようとするのだが、守備を得意とする高橋はレシーブの質もよく、なおかつレシーブしてから攻撃に入るスピードも速い。

守備にも自信がある高橋

そのため中島は「(高橋は)レシーブをして崩された後でも攻撃に入ってくれるので、セッターとしてはトスを上げやすい」と言う。

高橋も「速さがありながらも高さもある。あの正確なトスを高校生で上げられるのは健斗だけ」と全幅の信頼を寄せる。

面白いようにスパイク決まる 誰も二人を止められない

連戦が続いた春高でも、高橋がレシーブしてから攻撃に入るスピードは衰えない。それどころか試合を重ねるごとに調子を上げ、鋭さを増したスパイクが面白いように決まった。

豊田充浩監督も「決勝のジャンプが一番高かったし、一番状態がよかった」と感服。

鋭さを増したスパイクが光った高橋

小学生、中学生の頃にも全国制覇を成し遂げた中島は、セッターとしてさまざまな攻撃を巧みに使い分けるのも得意とする。だからこそあえて、大事な場面では高橋を頼り、高橋も中島のトスを信頼して助走に入る。

まさに長い時間をかけて培ってきた2人のコンビネーションは鉄壁で、最初で最後の春高でもその成果をいかんなく発揮した。

高橋との強力なコンビでチームを勝利へ導いた中島

主将のうれし涙…最高の仲間とつかんだ優勝

優勝チームのエース、主将として責任を背負い、「今大会にかけてきた」という高橋は優勝直後のインタビューで涙した。同じ京都のライバル、洛南に勝てず春高に出られなかった2年間。そして、全国大会で頂点を目指すも敗れたインターハイ。

いい時ばかりではなく、苦しい時も共に戦ってきた仲間に感謝を込めて。高橋が言った。

かけより優勝を喜び合う

「インターハイで負けた後、全員で1からバレーをつくってきて、最後に一番いい形で最高のチームになれたし、素晴らしいセッターの健斗と一緒にプレーできたからこそ、学べたこともたくさんあった。最高の高校生活でした」

最高の仲間たちと迎えた最高のフィナーレ。最強の東山を証明して見せた。

【チームデータ】
1958年創部。部員数33人(3年生10人、2年生17人、1年生6人)。19年の宮崎インターハイベスト4、茨城国体少年男子の部で優勝。南禅寺など京都の観光名所にほど近く、バスケットボール部など全国出場する運動部も多い。
東山バレー部のメンバー