「北陽は夏に昇る」。大阪の高校野球に私学7強といわれた時代があった。浪商(大体大浪商)、大鉄(阪南大高)、興国、明星、近大付、PL学園、そして北陽(関大北陽)。それぞれが新時代を生き抜く中で、関大北陽は「夏に強い」伝統の力を結集する。( 文・写真 宇佐見英治)

昨年の夏。7月9日、全国高校野球選手権大阪大会1回戦で、関大北陽は大阪桐蔭と戦った。京セラドーム大阪に187校が集った開会式後の第2試合。結果は0-4で敗戦。大阪桐蔭は当時2年生の藤浪晋太郎投手が完封。関大北陽は14三振を喫した。

あれから1年。大阪桐蔭は藤浪を軸に今春の選抜優勝、続く春の大阪大会と近畿地区大会を制覇した。このことは関大北陽ナインにも刺激になった。

新幹線の新大阪-京都間の高架がライト側すぐ外にあり、「のぞみ」がいつでも見える野球練習場を訪ねると、夏を目前に活気があふれていた。

夏は楽しみだ。北陽はこんな離れ業をやったことがある。新納弘治監督(50)が振り返る。

「1998年の秋に、初戦は勝ちましたが、次に大産大付に敗れた。コールド負けだったと思う。明けて99年春は、岸田(護、現オリックス)がいた履正社に初戦負け。夏を迎えるまで公式戦で1勝しかしていない。ところが夏は甲子園へ行ったんです」

松岡英孝前監督(74)の時代にも似たようなことがある。80年の秋季大阪大会準々決勝でPL学園に0-12と6回コールド負けしたチームが、翌81年夏に甲子園出場を決めた。

現チームが昨年秋初戦で大冠に6-8の敗戦を喫した時、OBに「北陽は夏に強い。それを見せてくれ」と励まされたという。今年の春季大阪大会1回戦は、珍しいことに大冠との再戦で11-0と完勝した。1年前の大阪桐蔭戦。現チーム副将の山田竜士捕手(3年)=大阪・吹田一中出身=は終盤に代打で三振した。今は主将でエースの吉川峻平投手(3年)=同・高野台中出身=と高田悠生三塁手(3年)=同・茨田中出身=はボールボーイをし、徳山大雅外野手(3年)=同・吉川中出身=はスタンドで声をからして応援していた。4人は、あのときの熱気を忘れない。

吉川主将は「守備からいいリズムで打撃に入り、しっかりつないで走者をためて、そこで一本。そういう試合をしていきたい」と気持ちを込める。いよいよ「夏に強い関大北陽」を見せるときが来た。

【TEAM DATA】
甲子園には松岡監督時代に春6回、夏4回。1990年に新納監督となって以後春夏ともに2回出場。オリックスの岡田彰布監督(54)ら26人のプロ野球選手を輩出した。80年の夏の甲子園練習では178人の全部員に甲子園の土を踏ませた。「来るものは拒まず」で、部員が200人を超えた時期もある。北陽が夏に強いといわれるのは、当時200人近く部員がいてベンチ入りさえも大変な中、全選手がこつこつ力をつけていくその成果が、3年生の夏に結実したからだろう。現在、部員は3年生18人、2年生19人、1年生29人。男子校の北陽は2008年に共学の関大北陽となり、かつてより部員数は減ったが、「強い気持ちで練習に取り組む」(高田三塁手)、「小さなことの積み重ねが、最後の夏の思い切ったプレーにつながる」(徳山外野手)という北陽カラーは健在だ。