堀江は日本人FWとして初のスーパーラグビー選手となり、日本ラグビー界に名を刻んだ

堀江翔太。日本人FWとして初めて世界最高峰のリーグ「スーパーラグビー」でプレーした、日本を代表する選手だ。学生時代はスター選手の陰に隠れた存在だったが、「彼らよりうまくなりたい」と海外に挑戦。挫折を繰り返しながら、プレーとメンタルを大きく成長させた。
(文・写真 斉藤健仁)

もっとつらい思いを

「大学の同期はスターぞろい。彼らよりうまくなるには、もっとつらい思いをしないといけない」

 日本代表の中心選手として活躍する堀江は、海外にチャレンジした理由をこう語る。

 キャリアは華々しいものではない。高校時代(大阪・島本)、「花園」こと全国高校ラグビー大会への出場はかなわず、進学した帝京大も当時は今のような強豪ではなかった。

 ニュージーランド(NZ)、オーストラリア、南アフリカと国境を越えて行われるリーグ「スーパーラグビー」でプレーする夢をかなえるため、2008年に大学を卒業すると、NZの育成組織でプレーを続けた。

 英語を学びつつ、日本人留学生の世話などをしながら研さんを積んだが、NZのチームから声が掛からず、翌09年に帰国して三洋電機(現パナソニック)に入団。「NZでは全く通用しなかったわけではなく、やれたという感触もあった。だから『また行きたい、あのままでは終われない』という気持ちがあった」

日本ラグビーの誇り胸に

代表チームに選出されるなど日本のトップ選手に成長した堀江は、11年のワールドカップ(W杯)終了後に、再びNZへ。国内リーグのチームに入ったが、当初は試合に出してもらえなかった。「こんなところで何をやっているんだ」と奮起し、3試合に出場した。

 翌12年、ついにスーパーラグビーのレベルズ(オーストラリア)からオファーを受ける。「夢が実現しました! 日本ラグビーの誇りを持って、体が小さくてもやれることを示したいと思った」。1年目は出番が少なかったが、チームメートのプレーを見て盗むなどして成長。翌シーズンは出場時間を大幅に増やした。「弱点だったスクラムなどのセットプレーや、FWの近場で体を張るプレーができるようになりました」

謙虚さを忘れずに

海外でのプレーを夢見る高校生ラグビー選手が増えている。そんな選手たちに堀江は「基本的なプレーをしっかりやりつつ、海外のラグビーをたくさん見てほしい。そして謙虚な気持ちを持つことを忘れないでほしい」とエールを送る。

 今シーズンはけがのためレベルズでのプレーは断念したが、9月にイングランドで開かれるW杯には間に合う見込みだ。海外で2シーズンを過ごし「海外の選手には慣れました。ほかの国の代表選手の名前に負けなければ大丈夫」と自信を深めた。

 「日本が好きですが、人よりうまくなりたかったので海外に出るしかなかった」というチャレンジ精神が、堀江を大きく成長させた。

ほりえ・しょうた
1986年生まれ、大阪府出身。島本高、帝京大を経てNZ留学。2008年、三洋電機(現パナソニック)ワイルドナイツに入団。09年に日本代表入り。11年、W杯出場。13年から2シーズン、スーパーラグビーのメルボルン・レベルズでプレー。ポジションはスクラムなどセットプレーの要であるHO(フッカー)。180センチ、104キロ。

世界の舞台でこそ身に付く力があります。このコーナーでは、国際大会や海外チームを経験した選手を紹介していきます。