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地域民話研究部門(団体)

  最優秀賞 
  「伊予の国小野谷に残る小野小町伝承の謎を解く
   愛媛県立松山北高等学校 郷土研究部
 
  優秀賞 
  頼朝を中心とした伊豆の伝説について
   静岡県立韮山高等学校 文芸郷土研究部
 
  佳作 
  「足立山麓の和気清麻呂伝承
   福岡県立小倉東高等学校 地域探求ゼミ
 
  「関東唯一の鬼を祀る神社「鬼鎮神社」について~川島地域と鬼の関係~
   東京・大妻中野高等学校 鬼研究会

    ■審査員講評も参考にしよう!【 地域民話研究部門 講評 

 

【 最優秀賞 】

「伊予の国小野谷に残る小野小町伝承の謎を解く」

愛媛県立松山北高等学校 郷土研究部

応募の動機

私達松山北高等学校郷土研究部は、昨年度の第16 回「地域の伝承文化に学ぶ」コンテストに「伊予には狐がいないよ」というテーマで作品を応募させて頂き、優秀賞という評価を頂きました。そこで、今年度も地域の伝承の謎を解くことに挑戦し、昨年度の作品を超える研究がしたいと思い、今回もこのコンテストに応募させて頂きました。

研究レポート内容紹介・今後の課題

愛媛県松山市小野谷地区に廃寺として残る梅元寺(正観寺)には、病を患った小野小町が病平癒のためにこの寺を訪れ、本尊である薬師如来に病を治してもらった、という伝承が残っています。
 柳田国男氏の先行研究によると、この伝承を伝えたのは、全国を流浪した宗教者の「熊野比丘尼」や、盲目の旅芸人である「ごぜ」が、全国を旅する中で各地に小町伝承を伝えていったとしており、いつこの伝承が全国に伝えられていったのかについては明らかにされていません。
 しかし私達は、この伝承を伝えたのは天台山門系の聖であると考えました。梅元寺は開基以来現在まで天台宗寺院であり、時宗等に改宗されたという記述は残されていません。また、熊野比丘尼が流布した、熊野信仰の本地は阿弥陀仏であり、小町伝承における薬師信仰とは相いれないためです。
 また、いつ伝承が伝えられたのかについては、『愛媛県温泉郡小野村史 全』の「正観寺」の項にある寺伝において、嘉吉三年(1443)時点の記事として、浮穴館であった得能佐馬守通光が病平癒のために梅元寺に祈願したとあり、これは小野小町の病平癒についての記事ではないため、嘉吉三年以降に小町伝承が成立した可能性が高いと考えました。更に、小野谷梅元寺は天和元年(1681)に現在の永尾山正観寺に移されたとあり、小町伝承は小野谷で成立したとされているため、室町時代中期の嘉吉年間以降、江戸時代前期の天和元年までに小野小町伝承が伝えられたと考察できます。
 さらに小町伝承は、平安時代末期に阿弥陀信仰に押されていた薬師信仰を、鎌倉時代から除病延命の仏として再び盛り立てていくため、また、室町時代に爆発的に勢力を伸ばした地蔵信仰に対抗するため天台宗山門系の聖たちによって作られ、各地に広められていった薬師如来の霊験伝承であると結論付けました。
 これらのことを調査する過程で、宝暦十二年(1765)編纂の『予陽郡郷俚諺集』の記事と、文化二年(1805)に正観寺の本山であった松山祝谷常真寺の僧、普潭によって編纂された『小野山正観寺法輪院縁起』の記事を比べると、はじまりは、小野小町が小野谷の出自であるという単純なものでしたが、時が経つにつれ、住吉大社への祈願、和歌の交換、温泉での治療などの諸要素が付け加えられていき、現在に残る小野小町伝承の形になったと考えられます。
 また、小野谷に小町伝承が残っていることは地元の人々の間でもあまり知られておらず、この伝承を記録に残し、地域に広めていく必要があると感じました。現在松山北高等学校では、地域活性化活動を行っており、この活動と小町伝承を結びつけたプロジェクトを立ち上げ、小町伝承を松山の市民に広めていきたいと思います。

梅元寺
正観寺門前にて

受賞者コメント

 新型コロナウイルスの流行という、例年と比べて活動を抑制されるなか、昨年度の「伊予には狐がいないよ」という作品で頂いた優秀賞を超える、という目標を掲げて作り上げた作品だったので、今回最優秀という評価をいただけて本当に嬉しかったです。大きな達成感を感じました。今回の作品は、顧問の先生、先輩方の力あってこそだと1,2年生は感じているので、来年からも今までご指導していただいたことを受け継いで、研究を続けていきたいと思います。
 応募の理由は、昨年度、優秀賞をいただくことができたので、それを超えたいと思ったからです。作品を創作するにあたって、使用した文献の紹介はその資料が作られた年代順にし、現地調査を行ったという内容では、その時の様子がわかるように写真を貼り付けました。創作中、最も印象に残っていることは、伝承に出てくる小野谷にある寺院を訪れた際のことで、地域に皆さんと直接交流して、研究に関係のあるないに関わらず、たくさんのお話をすることができ、とても良い経験をすることができたと思います。難しい資料等を読むには、日本史の基礎的知識が大切であるとわかり、まだ授業で学んでいないことも、自主的に調べるなどして、文献からどんな事がわかるのかに気付けるようになりました。また、大勢の前で研究結果のプレゼンテーションをする機会を通して、自分だけが知っていることを他の人にどうすればわかりやすく伝えることができるのか、ということも学ぶことができました。将来は、地元の中学校の社会科の教員となって、忘れられかけている伝承等を守るために、よりたくさんの子どもたちに歴史に興味を持ってもらい、歴史を学ぶことの楽しさを知ってもらいたいと思います。
 今後の課題は、まだ見つけることのできていない小野村史の出典の一部と考えられる梅元寺縁起を調べることです。部員の中には、まだ歴史に関する資料を読むのになれていない人が多いので、たくさんの文献を読んで、知識を身につけていってほしいと思います。

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【 優秀賞 】

「頼朝を中心とした伊豆の伝説について」

静岡県立韮山高等学校 文芸郷土研究部

応募の動機

伊豆半島には、源頼朝の伝説が数多く存在している。これらの頼朝伝説を調べる中で、異なる地域において類似している伝説が存在していることに興味を持ち、伊豆に残る頼朝伝説を収集し分析するために研究を始めた。研究により伊豆における頼朝伝説の特徴などがみえてきたので、地域民話の研究を発表する場を求めて応募した。

研究レポート内容紹介・今後の課題

まず、伊豆に言い伝えられる頼朝伝説を収集するために、伊豆に残る伝説についての本を収集した。それらの本を読んでいく中で、伊豆における伝説は頼朝に関する伝説が圧倒的に多いということが分かった。そこで、それらの頼朝伝説を様々な視点から分析した。頼朝伝説の分布は、伊豆半島全域に広がっている。時期をみると、頼朝の流人時代の伝説が多く、これは流人時代の資料が少ないためだと考えられる。残り方としては、石や寺社といった形あるものが多く、伝説は比較的後世に残りやすい記念碑や寺社によって言い伝えられることが多いと考えられる。
 頼朝伝説の性格としては、現地の人々が頼朝にあやかったり、珍しい事柄を言い伝えるために偉大な頼朝の話としたりする特徴がみられる。しかし、八重姫との伝説は偉大な頼朝の姿ではなく人間味あふれる姿が描かれており、頼朝の艶笑譚として残ってきたようだ。そして、特に注目した伝説が源頼朝、源頼家、北条義時に関する蛇伝説だ。頼家と義時の蛇伝説は蛇が悪役として描かれ蛇を退治するのに対し、頼朝の蛇伝説は蛇が頼朝に味方するという特徴があった。これは龍(蛇)を祀り、頼朝が信仰した伊豆山神社との深い繋がりをあらわしていると考えられる。頼朝伝説を分析していく中で考えたのは、恵まれない流人生活という苦難を乗り越えて幕府を開いた偉大な人物として頼朝を伝えるために、伊豆の人々は頼朝を神格化したのではないかということだ。
 このようにして、頼朝伝説を伝える伊豆半島の人々の思いに迫ることがある程度できたように思う。また、限られた時間の中ではあったが、フィールドワークで伝説の残る場所を実際に訪れることで文献を調べるだけでは感じることが出来なかったその場所の持つ意味や伝説の伝わってきた背景や雰囲気を実感することが出来た。まだフィールドワークが出来ていない伝説が多くあるので、それらの場所を調査することで研究をさらに進めていきたいと思う。
 そして、頼朝伝説を調べていく中で、わたしは特に蛇伝説に興味を持った。今回は、伊豆半島に残る頼朝伝説ということで限られた範囲の伝説の分析となったので、今後は全国へと視野を広げて蛇伝説を研究していきたいと思う。さらには、伊豆と全国の蛇伝説やその他の類似した伝説を比較することで、伊豆半島に言い伝えられる伝説の持つ特徴を追求していきたい。

函南高源寺巡検の図
間眠神社巡検の図

受賞者コメント

 自分の研究が評価されて、嬉しかったです。顧問の先生に今回のコンテストの話を聞き、自分の研究を発表する場を求めて応募したのがきっかけです。
 作品を創作するにあたっては、伝説をさまざまな視点で分析することを工夫しました。伝説を残してきた現地の人々の想いに迫ることが楽しかったです。この創作活動を通して、自分で研究したいことを自分の納得のいくまでとことん研究することの楽しさを学びました。
 卒業後は、民俗学か宗教が学べる大学に進学したいです。また、家業が神職なのでその仕事を継ぐことも視野に入れています。
 後輩へのアドバイスとしては、自分が興味のあることを楽しんで研究してほしいです。

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【 佳作 】

「足立山麓の和気清麻呂伝承」

福岡県立小倉東高等学校 地域探求ゼミ

応募の動機

学校の先生から「地域の伝承文化に学ぶ」コンテストのことを聞き、応募してみようと図書室で『福岡文学散歩』という本を調べたところ、その本に日本史の教科書にのっていた和気清麻呂という名前があり私達の地域に関係があることが分かった。地元の伝承にも関わらず、あまり知られていないと思い、この伝承について調べたら面白いのではないかと考えた。自分達で取材に行くなど、調査をしてみて、少しでも多くの人に知ってもらいたいという気持ちになり応募した。

研究レポート内容紹介・今後の課題

今から1200 余年前の神護景雲年間、称徳天皇の寵愛を受け、政界に進出した弓削道鏡は宇佐八幡神の神勅と偽り皇位につこうとした。清麻呂は勅命を受け宇佐八幡宮へ向かったが弓削銅鏡を皇位につかせるという信託が下りていないことを知り報告した。これにより憤った道鏡は彼の足の腱を切断し大隈国(現在の鹿児島県)へ流罪を命じた他、刺客を放ち襲わせた。立つことも困難となった清麻呂だが、皇室を守った神に感謝するため宇佐八幡宮に立ち寄ることにした。豊前国に至ると三百頭もの白猪が輿を囲み、彼を守りながら導いた。そこで清麻呂は「竹和山麓にある温泉に浴せば足は治る」というお告げを賜った。お告げの通り、温泉に浴すと足が治った。このことから、温泉が湧いていたところ「湯川」、温泉があった竹和山のことを清麻呂の足が立った山、すなわち「足立山」と呼ぶようになった。
 和気清麻呂は戦前、日本を救った人として評価され、必ず教科書に載るような人物だった。しかし、戦後GHQ の天皇制批判により、清麻呂は日本人にとって誇れる人物であるにも関わらず忘れられてしまった。その風潮により清麻呂を祀っていた葛原八幡神社への信仰は徐々に無くなり始めた。そのため現在、宮司が伝説をもとにリハビリの神として再評価してもらおうと参道の整備をしている。
 私たちはレポートを作成するにあたり、三ケ所の神社を訪れた。インタビューに応えてくださった方々は、神社の関係者だからこそ知っている話をたくさんしてくださった。そのため、インターネットで検索するだけでは知ることのできない情報を、多数レポートにまとめることができた。さらに、狛猪や清麻呂の像など実物の写真を載せることで、読む人がイメージしやすいように工夫した。
 私たちは3年生のため、今後は後輩たちがこの研究を発展させ、神社の祭りや行事を実際にお手伝いさせてもらうなど、地域の活性化につなげられるのではないかと考えている。

足立山妙見宮
葛原八幡神社

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【 佳作 】

「関東唯一の鬼を祀る神社「鬼鎮神社」について
~川島地域と鬼の関係~」

東京・大妻中野高等学校 鬼研究会

応募の動機

日本では昔話や民話、漫画などあらゆる文学作品において鬼を題材にすることが多くある。しかし、それらの鬼の描き方に違いが見られたため、鬼の文化について興味を持った。そこで調べた結果、私たちの住む地域に鬼にゆかりのある神社があることから、日本の文化の一つである鬼について研究しようと考え、応募に至った。

研究レポート内容紹介・今後の課題

1.はじめに
 
一概に鬼といっても、その概念はたくさんある。中でも、角や牙が生え、金棒を振り回した恐ろしい鬼の一般的なイメージは仏教に基づくものと考えられている。
 一方、調査から全国に鬼を祀る神社が4つあると発覚した。今回は関東唯一の鬼鎮神社に注目した。

2.鬼鎮神社の概要
 
鬼鎮神社は埼玉県嵐山町川島に位置し、境内には鬼の姿が多く見られる。
 現地取材をした際、平日の午前でも訪れる参拝客や、周辺の民家の玄関の鬼鎮神社の魔除け、神社の隣の公民館から地域の人々とは密接な関係があると考えた。さらに、参拝客の幅広い年齢層や家族の参拝客から家族のコミュニケーションの一環となっている事が分かった。
 また、鬼の強いイメージに基づき勝負事の際に願掛けとして訪れる人も多く、人々の心の支えとなっている。同時に、太平洋戦争前までは毎日が正月のように賑わっていたという話から、昔から人々は鬼を悪い存在としてではなく、強い力を持つ神として称えていたことが考えられる。

3.鬼鎮神社の伝説
 
埼玉県嵐山町川島に位置している鬼鎮神社。この神社の成り立ちは有力な説が二つある。
 一つ目は武蔵地方一帯を領有した畠山重忠(はたけやましげただ)が菅谷館(すがややかた)築造の際に鬼門除けとして金棒を持った鬼の像を奉納したという説。
 二つ目は地域に古くから伝わる「鬼鎮様」という伝説に基づく説である。大まかな内容は無理難題に答えるため、一生懸命に努力をし、その末、鬼になってしまった男を祀った物語である。

4.鬼鎮神社の伝説についての考察
 
次に私たちは鬼鎮神社や鬼について深く知るためこの伝説について二つの疑問点を挙げ、考察していくことにした。一つ目はなぜ鍛冶屋が伝説の舞台として語られているのかだ。これについて神社周辺の地理的情報からこの周辺では昔から砂鉄が取れ、金属加工が盛んだったことや神社前に金棒を作っていた鍛冶屋が二軒あることがわかり、こうした繋がりから鍛冶屋が伝説の舞台として語られていると推測した。
 加えて、なぜ人間である男が急に鬼へと変化してしまったということだ。これに対し、私たちは二つの仮説を立てた。一つは鬼才、鬼嫁といった鬼がつく言葉はおそろしい様子や普段と違う特徴を持つ人を意味し、同じように伝説でもそう言った様子や人物の特徴が描かれているため人間から鬼に変化したと表現されたのではないかと考えた。
 そして、もう一つは男にとって一緒にいたい娘への強い思い、またそれは鬼の概念の一つである悪霊と同じような強い執念が鬼へと変化させたのではないかと考えた。

5.今後の課題
 
レポートをまとめるにあたって自分たちに都合が良いように解釈してしまったことが多々あり、もう少し客観的にレポートを作成することが今後の課題だと思う。これから、学校内だけではなく、学校外の他の学校など多くの方に私たちの研究を発表し、周知活動に励んで参りたい。

鬼鎮神社の本殿と狛犬
報告者全員と絵『鬼の家族』

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