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地域民話研究部門(団体)(個人)

 【団体】
  最優秀賞 
  「民話の伝承と古代下野国における交通網の関係~地域の民話から史実を探る~
   栃木県立矢板東高等学校 リベラルアーツ同好会
 
  優秀賞 
  自然から生まれる民話たち~光礁・五色浜の地質調査から~
   鹿児島県立鶴翔高等学校 地域文化研究同好会
 
  「伊予には狐がいな“いよ”―河野氏と狐伝説―
   愛媛県立松山北高等学校 郷土研究部
 
  佳作 
  「大保木地区の伝承
   愛媛県立西条高等学校 地域・歴史研究部
 
  「桂蔵坊狐伝説について
   鳥取県立八頭高等学校 探究ゼミ
 
 【個人】
  佳作
  「豊橋市の昔話、伝説について
   愛知県立豊丘高等学校 2年 鈴木 美砂

    ■審査員講評も参考にしよう!【 地域民話研究部門 講評 

 

【 最優秀賞 】

「民話の伝承と古代下野国における交通網の関係
~地域の民話から史実を探る~」

栃木県立矢板東高等学校 リベラルアーツ同好会

応募の動機

私たちは昨年度の研究過程において、勝善神と九尾の狐の伝承の在り方について疑問を持った。そのため本研究において、勝善神と九尾の狐の民話を例として、民話の伝わり方について考察した。そして民話の伝わり方には交通網が影響しており、その民話をたどることで史実に近づくことができると結論づけ、応募にいたった。

研究レポート内容紹介

栃木県矢板市玉田には、勝善神社でもあり、生駒神社でもあるという全国的にも不思議な神社がある。この神社には、勝善神と九尾の狐の話が民話として伝わっており、近隣の地域でも同じ内容の民話が見られるが内容が少し異なる。このような民話は、いったいどのようにして伝わるのか。この疑問を解決するために、適宜フィールドワークを実施して考察を加え、論文としてまとめ研究レポートとした。
 論文の構成として、第2章では那須与一と九尾の狐の伝承から民話について述べ、第3章では民話の伝わり方と伝路の関係について述べ、第4章では、馬市を物語る石碑や近代に作られた馬頭尊碑群から、民話の伝わり方について述べた。その上で、第5章では本研究を総括し、民話の伝わり方には交通網が大きく影響しており、その民話をたどることで史実に近づけると結論づけた。
 特に論文の中心となった第2章では文献資料等をもとに、民話と関係の深い場所に赴き検証した。その結果、那須与一に関わる民話を調べていくと、馬や弓矢、扇の的に関わる民話が多いことがわかり、九尾の狐に関わる民話を調べていくと、狐退治や化けることに関する民話が多いことがわかった。そのことから民話の題材には、それぞれが持つイメージがあり、民話が語り継がれていく中でそれらのイメージが現在にまで伝わっていると考えた。しかし、イメージの異なる那須与一と九尾の狐がつながりを持つ民話も存在することがわかった。この民話では、狐退治に用いられた矢と、那須与一が扇の的を射た際に用いられた矢が同じものだと伝えられている。そのためこのように2つの題材が入り混じることは、那須与一の弓矢のイメージと、九尾の狐退治に用いられる弓矢が重なったために起こることだと考えられる。またこの民話には、那須与一の祖先と伝えられる須藤貞信が登場し、須藤貞信が那須与一と九尾の狐という2つの題材をつなぐ媒体になったといえるとまとめた。

今後の課題

研究を行っていく過程で、自分たちの都合の良いように解釈したりすることがままあり、議論を通して、自分たちの出した結論が正しいかどうかを考えた。今回扱った民話は幼い頃から馴染みのあるものであったが、そのような身近なものも別な視点から考えることで新しい発見があり、研究することがとても面白かった。
 今回指摘いただいたアドバイスをもとに、次年度も研究に励み、地域文化研究を楽しみたい。

玉藻稲荷神社
石上神社

受賞者コメント

 昨年、私たちは同コンテストで優秀賞を受賞しました。その研究を継続して行い、今回は最優秀賞を受賞することができ、驚くとともに、自分たちの昨年からの研究が高く評価されてとてもうれしかったです。私は、このような活動を通して、自ら地域の歴史や文化を新たに知り、発見することに楽しさを感じています。今後も、自分たちの研究課題を追求し、より深い学びを得れるように活動していきたいです。
 昨年の研究を通して生まれた疑問点について、地域に残る民話と史跡の関わりに注目し、研究を進めました。市誌や町誌、地域に残る史跡などから仮説を立て、考察しました。今回、研究した民話は自分が小さい頃からよく耳にしていた有名な話であったが、調べていくと知らなかったことや、意外なところに民話どうしのつながりを発見することができておもしろかったです。研究を進めていくなかで、自分の都合の良いように考えてしまうことがあり、常に客観的な視点を持って研究を進めていくことが重要であると感じました。
 実際に自ら足を運ぶフィールドワークを積極的に行い、そこで感じたことや考えたことを自らの研究に生かしていくことを今後の課題とし、後輩にもアドバイスしたいです。

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【 優秀賞 】

「自然から生まれる民話たち~光礁・五色浜の地質調査から~」

鹿児島県立鶴翔高等学校 地域文化研究同好会

応募の動機

一昨年の先輩方が研究テーマとした「阿久根の七不思議」の一つである光礁・五色浜は、不思議な光を発する岩、そして色とりどりの石のある海岸として、今も語り継がれている。
 その光礁・五色浜が、今年、県指定天然記念物に指定された。そこで、その地質学的価値についての調査を行い、神秘的な伝承が生まれた理由について考えた。さらに石と民話の関係性について考察した。

研究レポート内容紹介

日本列島および九州の地質についての調査
 日本列島はプレートの沈み込み帯にある。この鹿児島県北西部の阿久根一帯の地盤は、約2億年前のプレートの沈み込み帯で生まれた、ジュラ紀の付加体(秩父帯)で構成されている。しかし、南九州は火山活動が盛んなため、阿久根一帯も火山噴出物や堆積物で覆われてしまった。その中で、唯一ジュラ紀の地層が露出している貴重な場所が光礁・五色浜なのである。

フィールドワーク
 ① 礁・五色浜にて
県立博物館の調査報告書をもとにフィールドワークを行った。海岸に打ち上げられていた石を観察すると、様々な種類の石があった。その中で、やや透明がかった色とりどりの石が目立つ。付加体特有のチャートと見られる。

② 岩石に関わる民話が伝わる地点等にて
七不思議や他の民話(川平の巨石群・身投げ石等)に登場する地点、および市域の南端、北端でも調査を行った。全体として、光礁のチャートのような鮮やかなものはなく、黒色、茶褐色の火山性の岩石が多かった。
 フィールドワークを通じて、光礁・五色浜がこの付近では特異な地質を示す場所であり、古人が五色浜のチャートを「珍玩と」したこともうなずけた。まさに、2億年前からのたからものと称するにふさわしい。

石と民話についての考察
 光礁・五色浜以外にも岩石にまつわる民話は多く、この一帯では火山の生み出した岩石の荒々しさや力強さを感じさせるものが多い。石と民話という視点で民話を探っていくと、『古事記』の神話に行き着く。天孫である邇邇芸命が限られた寿命を持つことになる、木花之佐久夜毘売と石長比売の話である。この神話から、古人にとって石や岩は、形を変えず、その姿を保ち続ける神秘的な存在、「永遠」「永続性」の象徴であったと言えるのではないだろうか。そして、それが多くの民話を生み出していくことになったのではないだろうか。

今後の課題

今回は、光礁が天然記念物に指定されたというところから調査を始めた。地理学や地質学など、一見地域の伝承とはかかわりがなさそうな分野であったが、自然が民話を作っていくという視点で、自然環境をキーワードに民話や伝承を考察していくと、新たな発見もあるのではないだろうか。これまでの研究で訪れた場所の写真や資料も振り返りながら考察していったが、今後、この新たな視点で身近な地域の伝承を見なおしていきたい。

巨石群についてお話を伺う
光礁にて地層の走向を確認

受賞者コメント

 これまでの先輩方の研究レポートを参考にして今回は阿久根市に伝わる七不思議の光礁に着目し、調査してきました。優秀賞3年連続という光栄な結果を頂ことができ、ご指導頂いた顧問の先生や、図書館の方々、地域の方々に感謝の思いでいっぱいです。何より、一緒に活動した仲間たちとの努力がこういった形で表れたこと、本当に嬉しく思います。
 私たちの高校は阿久根市に在り、阿久根市には阿久根の七不思議というものがあります。その1つである「光礁」は大きな岩なのですが、今年に入りこの辺りで光礁の地層が一番古いことから県指定文化財に指定されたことを受け、光礁及び周辺の地質を調査することになりました。地質を調査する中で、中学校で学習した岩石がここで生かすことが出来たことに嬉しさを感じました。また、付加体や放散虫など今まで自身になかった地域を蓄えられました。時々、専門用語が出てきた場合は理解できるまで大変でしたが、顧問の先生から教えて頂いたり、仲間たちと確認し合ったりして理解を深めることが出来たと思います。
 興味のあるものを追求していくことはとても楽しく、知識として自分自身の中に蓄積されることはとても素晴らしいことです。いつかこの調査が役立つ日が来るかも知れないと思った時、これまでの調査は宝物になります。そのことを忘れずにこれからの調査や新しい発見を楽しんで下さい。

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【 優秀賞 】

「伊予には狐がいな“いよ”―河野氏と狐伝説―」

愛媛県立松山北高等学校 郷土研究部

応募の動機

私たちは、部活動の顧問の先生の紹介でこのコンテストを知りました。そして、部員の1人が、祖母から「四国に狐がいない理由」という松山の道後湯築城当主河野通直に関する伝承を聞き、それを部内で紹介したことからテーマが決まりました。この伝承は、狸に関する伝承の多い愛媛県の数少ない狐の伝承です。500 年前の戦国時代、どうして狐たちが四国を出て行かなければならなかったのか、そして、なぜ狐に関する伝承が愛媛には少ないのかという謎に挑戦した作品です。

研究レポート内容紹介・今後の課題

私たちはまず、愛媛や全国の狐や狸の伝承が、一般にどれほど知られているのかを調査するため、校内で書面でのアンケートをとりました。すると、全国の狐や狸の伝承はよく知られているものの、愛媛の狐や狸の伝承となると、ほとんど知られていないのが現状でした。私たちは、より多くの人たちに愛媛の伝承を知ってもらうためにも、この研究をしっかりまとめようと思いました。
 次に、私たちは「四国に狐がいない理由」という伝承の成り立ちについて調べました。そのお話の内容は、松山の道後湯築城城主である河野通直の奥方がある日突然2人になってしまいました。通直は、あの手この手で偽物の奥方を見破り、化けていた狐が正体を現しました。そして通直は、その狐を火あぶりにしようとしたとき、大勢の手下の狐が親玉狐の許しを乞いにやってきました。通直は親玉狐を許す代わりに、四国から狐全員が出て
行くよう命令しました。この伝承に登場する河野通直は、戦国時代後期の河野弾正少弼通直のことだと考えられます。また、このお話は、天文年間(1532 ~ 1555)の出来事だと推定できます。
 そして私たちは、さらに河野氏の歴史を調べるため、河野氏の本拠地である道後湯築城を訪れました。そこでは、ボランティアガイドの方から河野氏の歴史を解説していただきました。また、城内にはこの伝承の舞台だったと推測される「杉の壇」もあり、現場の空気を感じることが出来ました。
 ガイドの方から聞いたお話を元に調査を進め「四国に狐が居ない理由」の元となった歴史上の出来事を考えてみると、河野通直・晴通父子で争った天文伊予の乱、近隣の大勢力である周防の大内氏による伊予侵攻、さらに通直による伊予国内の宗教統制などの歴史的事件がありました。そしてこの伝承は、通直が行った事象を顕彰することを目的に作られた物語だと考えられます。
 初め私たちは、この伝承に対応する歴史上の出来事は天文伊予の乱くらいだと考えていたのですが、実際に調査を重ねると、通直に関する、様々な歴史事象が複合的に取り入れられていることが分かるとともに、歴史の深さを改めて感じることが出来ました。
 この研究では、「四国に狐がいない理由」という伝承の調査を行い、河野通直との関係性についてまとめることができましたが、なぜ愛媛に狐の伝承が少ないのかという謎を解くことまでは、十分にできませんでした。今後は、他の伝承などを調査しながら、なぜ愛媛に狐の伝承が少ないのかという謎の核心に迫ることができるように活動を続けていきます。

伝承の舞台である湯築城杉の壇
ガイドの方から解説を受けている様子

受賞者コメント

 初めての応募にも関わらず、優秀賞をいただけたことは大変名誉に思います。応募を勧めてくれた顧問の先生や、研究に御協力いただいた、湯築城跡のボランティアガイドの皆様に感謝したいです。
 部員が祖母から伊予河野氏と狐の伝承を聞き、それを部で紹介してくれたことから、研究が始まりました。前年度は河野氏の歴史を調べたので、今年度はそれにまつわる伝承について調べようと思いました。伊予河野氏と宗教との関係について調査したことで、民俗学や歴史学の研究方法を学ぶことが出来ました。中でも高野山上蔵院の文書に関する専門家の論文は、専門的な用語や知識が多く、読み進めるのが大変でしたが、文献史料の大切さについて認識できました。
 調べた研究は、広くたくさんの人に知ってもらうことが重要だと考えます。しかし、今年は新型コロナウイルスの影響で周知活動ができませんでした。今後は、知ってもらうことの大切さを伝えたいと思います。

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【 佳作 】

「大保木地区の伝承」

愛媛県立西条高等学校 地域・歴史研究部

応募の動機

このコンテストには毎年部活動で応募しており、このテーマは数年間かけて取り組んだ活動の成果がまとまったので地域民話部門(団体)として応募した。地域の伝承をこのような形で知っていただけたことは嬉しい限りである。今後も部活動の日頃の成果を披露できる貴重な機会として活用したい。

研究レポート内容紹介・今後の課題

1 はじめに
 西日本最高峰石鎚山のふもとに大保木地区があり、この大保木地区に伝わる伝承「銀納義民」について調査を始め、交流活動を続けていく中でさまざまな成果を得ることができた。

2 大保木地区の伝承とは
 「江戸時代、年貢はお米で納めるように決められていた。しかし、この大保木地区は山間部にあり、急斜面ばかりの土地であったため広い田んぼや畑を作ることが困難で、年貢を納めることが難しく、お米を麓の里まで買いに行くしかなかった。そこで、年貢米を銀(お金)で納めさせてもらうように西条藩の殿様に願い出た。村の代表となった工藤治兵
衛は仲間と共に、西条陣屋の入口でひざまずいて必死に訴えたが、聞き入れられずとらえられてしまった。そして治兵衛とその家族らを含めた十六人が処刑された。治兵衛たちが処刑された後も村の人々は運動を続け、1670 年に銀納が許可された。」

江戸時代といえば領主に百姓が訴えることは御法度であった。犠牲となった人々は「義民」と呼ばれた。大保木の人々の訴えは、工藤治兵衛ら犠牲者を出しながらも続けられ、銀納が認められるという成果が見られた。そこで、この成果とそれに伴う犠牲のために現在にいたるまで語り継がれてきたのであると考えられる。

3 調査内容・結果
 大保木公民館の館長さんにお話を伺い銀納義民について知った。そして、文献調査や聞き取りを通してさまざまな説を整理し、フィールドワークを行ってゆかりの場所も訪れた。
 銀納義民ゆかりの場所を訪れてみると、お墓やお堂などがきちんと整備されており、地元の人たちが大切に受け継いでいるということがわかった。私たち若い世代も地元の伝承を大切にしながら次の世代に語り継いでいかなければいけない。

4 啓発活動と今後の課題
 学びの成果をまとめてクイズも取り入れながら校内外で紹介した。350 年以上語り継がれ西条藩の歴史にも関わる伝承を多くの方々に知ってもらう必要性を感じたからだ。こうした地道な啓発活動を知った西条高等学校の卒業生から紙芝居作成のお誘いを受けた。そこで、私たちが調査したことをもとに郷土史家と連携しながら脚本を作成し、絵は地元の中学生の協力を得て、紙芝居が完成した。そして大保木地区のイベントで紙芝居を披露した。
 今後も地域で大切にされている伝承を調べて、後世に語り継いでいきたい。そのためには地域の方々との連携が大事なことを実感した。より効果的な啓発の方法も考えていきたい。

銀納義民慰霊塔
治兵衛堂

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【 佳作 】

「桂蔵坊狐伝説について」

鳥取県立八頭高等学校 探究ゼミ

応募の動機

桂蔵坊は江戸時代に鳥取池田家城主に仕え、三日で江戸まで行くことができた狐である。しかし、江戸時代中期の「鳥府志」では悪狐を成敗する因幡狐の棟梁としての桂蔵坊伝説が伝えられている。現在よく知られている桂蔵坊とは全く別の桂蔵坊が存在していた。伝説がどのように変化し、その原因は何かを知りたいと考えた。

研究レポート内容紹介

荻原直正(1961)は桂蔵坊の伝説が狂言「釣狐」と似ていることを指摘している。
巻島隆(2018)は秋田、福井、鳥取など日本海側の北前船寄港地に飛脚狐伝説が伝わっ
ており、桂蔵坊も秋田の与次郎狐伝説が伝わったものと推測している。福代宏(2003)
は桂蔵坊伝説の古い史料の書き手は鳥取池田家藩士であり、互いに交流があったことを指摘している。
 江戸時代中期の桂蔵坊は悪狐を成敗する因幡狐の棟梁である。飛脚狐のモチーフは後で流入した。現在の桂蔵坊は明治時代に創造されたものではないかと考えた。
 「怪談記」(享保9年(1724)初稿)では城主の飼っていた鳥を喰い殺した悪狐を桂蔵坊が成敗する。「雪窓夜話」(寛延3年(1750)~宝暦5年(1755)成立)、「因府夜話」(元文5年(1740)~寛延3年(1750))では城主の船の御召始めをのぞき見した悪狐が国外へ追放された話も追加されている。

「鳥府志」(文政12 年(1829)ごろ)で初めて飛脚狐のモチーフが紹介される。桂蔵坊は「或時道中にて御状箱を頸に掛けつゝ締にかゝりて」死に、その後一村が祟りにより全滅したという。
 飛脚狐の桂蔵坊は狂言「釣狐」の白蔵主と似ている。守随憲治(1957,58)、田中貢(1987)によれば、元禄4年(1691)に鳥取池田家の江戸屋敷で「釣狐」が上演され、正徳2年(1712)、同3年(1713)にも再演されている。また宝永5年(1708)には「釣狐」を改変した浄瑠璃「天鼓」が上演されている。以上の様に、狂言「釣狐」も飛脚狐としての桂蔵坊のイメージのもとになっている可能性がある。
 明治時代に成立した「因伯昔話」(明治44 年(1911)、横山書店)では飛脚狐のモチーフのみとなる。祟りの話はなくなり、代わりに城主が憐れんで、城内に祠を立てたことが記されている。この変化は教育的な配慮のためと想像される。
 桂蔵坊のイメージは時代により次々に変化してきた。今後は明治以降に行われた昔話の聞き取りなども収集、分析してみたい。

・参考文献
守随憲治(1957,58)「 鳥取池田藩芸能記録の発掘(二、元禄編)」「同(三、宝永編)」(東京大学教養学部人文科学紀要第13・16 輯)※『守随憲治著作集第五巻』(笠間書院、1979)所収
荻原直正(1961)「桂蔵坊漫想」(同『因伯郷土史考』(鳥取週報社)p100-101)
田中 貢(1987)『因州藩の能楽』(鳥取市社会教育事業団)
福代 宏(2003)「野間宗蔵の「怪談記」について」鳥取県立博物館研究報告第40 号、p33-39)
巻島 隆(2018)「飛脚への眼差し-近世文芸・芸能・伝説から探る-」(郵政博物館研究紀要第9号)

白蔵主(「釣狐」より)
報告者全員と桂蔵坊を祀る中坂神社

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地域文化研究部門(個人)

【 佳作 】

「豊橋市の昔話、伝説について」

愛知県立豊丘高等学校 2年 鈴木 美砂

応募の動機

私は地域の伝説、神話について調べました。調べた理由は、私が小学生のころ通っていた学童でよく地域の伝説や神話について話を聞いて、興味があったからです。そのため、夏休みに「地域の伝承文化に学ぶ」コンテストの課題が出されたのをきっかけに、伝説、神話について調べようと思いました。

研究レポート内容紹介

調べたところ、東三河地方の伝説、神話は約300、私の住んでいる豊橋市では、約70 もありました。私はその中から身近なものや、行ったことのある場所の話を5つに厳選してまとめました。
 1つ目は「アナドばあさん」です。嵩山町にある嵩山の蛇穴という場所にまつわる伝説です。嵩山の蛇穴は標高40 メートルの山腹の斜面に開口する天然の石灰洞で、75 メートル奥まで行くことができる洞窟遺跡です。国の史跡になっています。アナドばあさんとは、蛇穴に住んでいると信じられていた大蛇が日が昇っている間だけおばあさんに変身しているというお話です。私が小学生のころ通っていた学童保育所では毎年夏休みの終わりに自転車で嵩山の蛇穴まで行っていました。とても暗く少し不気味な場所ですが、中に入るとひんやりしており、涼しかった思い出があります。

2つ目は、「岩屋の観音様」です。岩屋観音は、天平2年(730 年)、行基が千手観音像を刻んで岩窟に安置したのが起源とされています。この話は今からおよそ240 年前に豊川にかかる橋の工事をしようとした大工がいたのですが、川の流れが速く、一向に工事が進みませんでした。そこで大工は岩屋の観音堂に籠り7日間の願をかけ、7日目の夜夢で橋を架ける方法を観音様が教えてくれたというものです。観音様の力添えに感謝した大工は岩屋山の頂上に身の丈3メートルもある観音様を建立しました。ここは私が幼いころから家族や友人といったことのある場所です。観音様は近くで見るとより迫力があります。そして、そこから見渡せる豊橋の街も美しいです。

3つ目は、「お弓橋」です。お弓橋は東田神明宮の北にある梅田川に架かる橋で、豊橋の民話として古くから言い伝えられています。昔、正左衛門という豪農の娘のお弓が吉田城下に住む京之介と恋に落ちました。しかし、それを知った正左衛門は二人の仲を引き裂いてしまったのです。それを悲しんだお弓は思いあまって井戸に身を投げ死んでしまいます。その日は豪雨で川の水が増しており、同じ頃、京之介の溺死体も発見されました。その後、川のあたりにふわふわと漂う怪しい火が見られるようになります。それを二人の未練の人魂だと思った人々は、お互いの場所を行き来できるようにと橋を架けました。それが現在も残っている小弓橋といわれています。ここは学校帰りたまに通ることがあります。このような言い伝えは少し怖いですが、身近にあり驚きました。

4つ目は、「でえだらぼうの股ずれ峠」です。でえだらぼうとは古くから日本に伝わる巨人の名前です。神代の時代に雲を突き抜けるような大男がいました。でえだらぼうは野に出ては作物を荒らすなど悪さばかりしていました。ある時富士山をもっと高い山にしようと、琵琶湖の土を天秤棒で担ぎ滋賀から静岡まで運ぶ途中に多米峠を越えようとしました。しかし峠をまたいだその時、大きな音を立て股をすってしまったそうです。そして村
人たちはその峠を「股ずれ峠」と呼ぶようになったそうです。でえだらぼうは日本中で様々な伝説が残っていますが、こんなに身近にあるとは思っていなかったので驚きました。

5つ目は、「山の背くらべ」です。は本宮山と石巻山という東三河のなかで有名な山の話です。昔どっちのほうが背が高いか言い争いをしていました。それが次第に両方の山の神様が、石の投げ合いをするほど激しい喧嘩へ発展しました。そこで山々の神様は決着をつけさせるため、石巻山と本宮山の山頂に水を流しました。これにより石巻山の頂上の土がドッと流れ落ち、石巻山が負けてしまいました。そんなことから、石巻山に登る人々は、少しでも高い山になるように小石を持って登り、頂上においていくようになったそうです。石巻山と本宮山は何度か登ったことがあります。登るのは大変ですが、そのさきにはとても綺麗な景色が広がっており、どちらの山も市民から愛されています。

今後の課題

今はインターネットが普及し、地域の人などから自分の住んでいる地域の伝説や神話を聞く機会が減っていると思います。私は小学生のころに話を読み聞かせてもらい、今でも内容を覚えていたり、より地域に親しみを持つことができました。そのため、今後も継続して学校などで地域の伝説や神話を読み聞かせてもらえるような機会を設けてほしいと思います。

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