【目次(TOP)】【地域文化研究部門(団体)】【地域文化研究部門(個人)】【地域民話研究部門(団体)(個人)】【学校活動部門】

 

地域文化研究部門(団体)

 優秀賞 
みなべ・田辺の梅システム 400 年とこれから
和歌山県立田辺高等学校 みなべ・田辺の梅システム研究会
 
未来へつなぐ地域資源 ~伝統食材の保存と普及を目指して~
群馬県立勢多農林高等学校 植物バイオ研究部
 
 佳作 
2019 年度 地理歴史部民俗調査 東白川村
奈良・帝塚山高等学校 地理歴史部
 
知られざる北伊豆地震と朝日町長 ~朝日町長の対応は復旧ではなく復興だった~
静岡県立沼津城北高等学校 情報メディア部 災害研究

    ■審査員講評も参考にしよう!【 地域文化研究部門 講評 】

 

【 優秀賞 】

「みなべ・田辺の梅システム 400 年とこれから」

和歌山県立田辺高等学校 みなべ・田辺の梅システム研究会

応募の動機

私達の学校では、“Think Locally Act Globally" を掲げ、授業の一環として総合学習を行っています。今回は、和歌山県の梅産業を支える「みなべ・田辺の梅システム」について調査をしました。この地域に住む学生として、梅システムについて理解し、後輩へ伝えていくことの重要性を感じています。

研究レポート内容紹介・今後の課題

和歌山県みなべ町・田辺市は古くから梅の産地として知られてきました。これを支えるのが、2015 年世界農業遺産に登録された「みなべ・田辺の梅システム」です。このシステムは、梅畑や薪炭林が互いに作用し合うことで里山の生産性を保持し、生産だけでなく、生物多様性や人々の生活も支え続けてきました。この持続可能性は、まさにSDGs の視点を備えています。

1、薪炭林
  
薪炭林は、水源涵養や斜面崩壊防止などの役割を持ちますが、中でも重要なものが製炭業での利用です。和歌山県田辺市秋津川で作られる紀州備長炭は、日本三大備長炭に数えられ、最高峰の品質を誇ります。紀州備長炭記念公園を訪問し、伝統技術を学びました。
 「択伐」とは、紀州備長炭に用いられるウバメガシを伐採する際、若い木は切らずに残すことで森の回帰時間を縮め、森の持続可能性を保つ伐採方法です。
 次に、木炭は大きく分けて黒炭と白炭の2種類に分類されますが、これらの大きな違いが、「ねらし」という工程にあります。炭焼きの過程で一気に炭化させることで不純物を飛ばし、金属光沢を出す重要な工程です。

 

2、梅
 
梅システムの名前にもあるように、中心となるのは梅産業です。和歌山県みなべ町では17 世紀から梅栽培が行われています。みなべ町で梅農家を営む谷耕一さんご夫婦にお話を伺いました。
 梅の収穫は6月頃から行われますが、7月下旬から始まるのが「土用干し」です。この工程で、塩漬けした梅を梅ざるの上で二、三日天日干しすることで、旨みが凝縮されて美味しい白干梅が出来上がります。
 また、伝統的な梅酢の鯖寿司を地域の方に手伝っていただきながら作りました。梅の殺菌効果によって、魚が腐りにくくなるそうです。

 

3、生物多様性
 
梅産業・薪炭林はもちろんですが、梅システムが世界農業遺産に登録された大きなポイントが里山の生物多様性です。和歌山県みなべ町にある山に入り、様々な生物を観察しました。1時間で20 種の生物、10 種の植物を見つけることが出来ました。

4、梅システムのこれから
 
グローバル化が進む現代において、梅産業の海外進出は大きな課題です。田辺駅前の調査で、外国人の過半数が梅干しを知らないことが分かり、梅干しの認知が需要に繋がるのではと考えました。
 このように、課題も残る梅産業ですが、400 年にわたり続いてきた梅システムは世界に誇る和歌山の遺産です。これからは私たちが、このシステムを受け継いでいく必要があると思います。

受賞者コメント

 今回の活動は、フィールドワーク先の方々を始め、多くの方々にご協力いただき、長期間行ってきました。大変なことも多くありましたが、それ以上に楽しく、勉強になる経験ができました。思い入れの強い活動であっただけに、優秀賞を受賞できて本当に嬉しいです。ご協力いただいた皆様、関係者の皆様本当にありがとうございました。
 学校の探究活動で、何らかのコンテストに応募することになり、地域のことについてもっと知り、理解する良い機会だと思って政策を始めました。以前から梅についての調査を行っていたのでそれについてより知識を深めたいという思いもありました。減少しつつある伝統文化でも、残したいという思いを持って受け継いでいる人がいることを知りました。近年注目されているSDGsの視点が、「みなべ・田辺の梅システム」に備わっていることを知りました。新型コロナウイルスの影響で、思うようにフィールドワークに行けなかったのは大変でした。
 梅や備長炭についての歴史については学べましたが、それらの周りにある人と人との交流については詳しく調べられなかったので、新型コロナウイルスの時期でなければもっと地元の人と交流したかったです。交流を通して知ることのできる文化をまとめられれば、もっとおもしろいと思います。

 【目次(TOP)】【地域文化研究部門(団体)】【地域文化研究部門(個人)】【地域民話研究部門(団体)(個人)】【学校活動部門】

 

【 優秀賞 】

「未来へつなぐ地域資源~伝統食材の保存と普及を目指して~」

群馬県立勢多農林高等学校 植物バイオ研究部

応募の動機

私たちは神流町の食文化・伝統文化の保存と伝承のためには地域の活性化が必要不可欠であると考えた。そこで、神流町の地域の方だけではなく、多くの方に神流町やその伝統文化の魅力を全国に伝える必要があると考えた。そのため、私たちが研究してきたことについて発表することにより、広く知ってもらえると思い応募をした。

研究レポート内容紹介・今後の課題

群馬県多野郡神流町は豊かな自然や文化を有する魅力ある中産間地域である。一方で高齢化が進行しており、国内でも高い水準となっている。さらに、厚生労働省所管の試算によると、2035 年には神流町が日本一高齢化率の高い地域になると予想されている。このまま地域の衰退が進んでしまい、地域特有の食文化・伝統文化の消滅にも繋がってしまう。
 そこで、農村調査を実施し、地域に伝わる伝統文化の情報収集に取り組んだ。神流町について調査した結果、伝統食材「あかじゃが」や「アワバタダイズ」を再発掘することができた。また、次の世代に伝承していくために神流町での栽培で使用されている伝統農具や伝統食材を使った郷土料理を記録することができた。伝統農具に関しては、神流町で実際に使用されていた「こなし台」の復刻作業を行なった。こなし台の作成では神流町の農
家の方から農具をお借りして再現をした。また、郷土料理に関しては、神流町の主婦の方から料理を実際に教えて頂き、レシピとして保存することができた。
 神流町の伝統食材の魅力を多くの方々に知ってもらうために、神流町にあるカフェと共同で「あかじゃが」と「アワバタダイズ」を使用した新商品の開発に取り組んだ。そこで開発した商品をイベントで手軽に食べられるように現代風にアレンジを加えた。実際に神流町で開催されている祭事「神流の涼」で販売を行った結果、用意していた約100 食分を完売することができ、伝統食材を多くの方に知ってもらえる機会となった。
 伝統食材の栽培に関しては、収量が少なく、供給が安定していないという課題がある。そのため、栽培技術の研究や、優良種子の選別を行ない毎年農家の方々に提供している。
 今後の課題として神流町の魅力を知ってもらうために、民泊施設での体験型イベントを実施し、神流町の豊かな自然や残された貴重な伝統文化を体験して頂きたい。他にも新商品の定期的な販売をしたいと考えている。それらを実現するために、あかじゃがの秋作栽培による収量増加に関する研究をし、アワバタダイズも系統選抜を続け、収量増加を目指したい。このような活動を継続することにより、神流町の地域活性化に繋げることが私達
の活動目標である。
 今後も地域の方々から伝承文化を学ぶと共に、それを活用して多くの方々に神流町の伝統文化を継承していきたい。

伝統食材あかじゃがの収量調査
伝統食材を使った新商品の試食アンケート

受賞者コメント

 私達の活動が認められてとてもうれしい気持ちでいっぱいです。部員みんなで作った作品なので入賞してとてもうれしいです。また、この結果に満足せず、もっと濃厚な活動にしたいです。
 神流町の現状を知ってもらい、地域振興につなげるため、神流町の魅力を多くの人に伝えるためこの作品を制作しました。作品を制作するにあたって改めて神流町のことについて学べました。また、卒業していった先輩方の活動も振り返ることができました。今年私は3年生なので、しっかりと後輩に活動を引き継ぎたいと思っています。
 今後の課題は、民泊施設での体験型イベントの実施についてと、さらなる新メニューの提案だと考えています。この2つの課題を次の目標にし、がんばっていきたいと思います。また、後輩たちには神流町を次のステージにあげられるようにがんばっていただきたいです。

 【目次(TOP)】【地域文化研究部門(団体)】【地域文化研究部門(個人)】【地域民話研究部門(団体)(個人)】【学校活動部門】

 

【 佳作 】

「2019 年度 地理歴史部民俗調査 東白川村」

奈良・帝塚山高等学校 地理歴史部

応募の動機

2019 年8月4日から7日まで、地理歴史部は岐阜県加茂郡東白川村において、民俗調査を行った。帝塚山高校地理歴史部では山村と島を一年おきに調査し、結果を発表しており、2019 年で26 年目である。このコンテストには過去にも数度応募したことがある。2019 年のレポートの出来はまずまずだったので、応募するに至った。

研究レポート内容紹介・今後の課題

講評にもあった通り、うちのクラブが毎年出しているレポートは「民俗誌」ということになるのだと思う。もちろん、文献にも頼るが、なるべく「現地で聞き取り調査した内容を漏れなくまとめること」「昔の事柄だけでなく、現在の事柄も報告すること」「村の人の個人個人の体験や思い出も大切にすること」などを念頭にしてまとめることにしている。今年報告の東白川村は岐阜県の東部、加茂郡の東端に位置する。全面積の90%余りが山林で、渓谷型の山村。飛騨川の支流白川の上流に沿った村である。白川は村の中央にあり、西へと流れている。主な産業は農林業であるが、中でも緑茶は高級緑茶「白川茶」の産地であり、また建築良材「東濃ヒノキ」の主産地としても有名である。
 この村の民俗を語る上で、神道は欠かせない。全国でも珍しい、寺のない村、神道村なのである。これは明治初年に新政府が行った神仏分離令に端を発する。当時東白川村は、廃仏に急進的な平田国学が隆盛していた苗木藩下にあって、神仏分離令が廃仏毀釈運動に発展。当時は存在していたお寺はみな、打ち壊された。寺は今なお一つもなく、冠婚葬祭はすべて神道式で行われているのである。また、岐阜県は今なお地歌舞伎が数多く残って
いることで有名であるが、この村もその例に漏れない。村には地歌舞伎の保存会があり、役場裏のはなのき会館では毎年9月には地歌舞伎が上演されている。レポートでは「廃仏毀釈」と「地歌舞伎」についてまとめた後、村の農業・林業・畜産についてまとめた。
 講評では「総合的な民俗誌とはなっていないが、地域の特色が強調された報告書となっている」というお言葉をいただいた。先年、別の地域でレポートをまとめた時も地域のみなさんにお褒めの言葉をいただいた。「村にはいわゆる村史はあるが、古い事柄しか書かれていない。これ(うちのレポートのこと)は村史には記されていない新しいことや、ありのままの事実が記されていて、これがまた歴史になっていく」のだと。これからも、聞き取りの結果を中心に「地域の特色」「地域のありのままの姿」をまとめることを目標として活動に取り組みたいと思っている。一方でこのような活動から私たちが得たもの、考えたことの報告には至っていない。今後はそのような考察も含めてレポートしていきたいとも思っている。

白川にて・部員一同
聞き取り調査・白川茶について聞く

 【目次(TOP)】【地域文化研究部門(団体)】【地域文化研究部門(個人)】【地域民話研究部門(団体)(個人)】【学校活動部門】

 

【 佳作 】

「知られざる北伊豆地震と朝日町長
~朝日町長の対応は復旧ではなく復興だった~」

静岡県立沼津城北高等学校 情報メディア部 災害研究班

応募の動機

去年10月の台風19号が、昭和33年の狩野川台風に似ているという報道があり、非常に大きな被害があった台風だということを知ったことで、過去の自然災害に興味を持ち研究調査を行った。その結果、三島では有名な関東大震災よりも被害が大きい昭和5年の北伊豆地震があることがわかった。その北伊豆地震の時の三島町長朝日原作氏の対応が迅速で、他とは違ったものであることも分かったので、そのことを多くの人達に知ってもらいたいと思い応募した。

研究レポート内容紹介・今後の課題

〇研究内容
1 はじめに(テーマ設定理) 2 北伊豆地震について 3 朝日原作町長の震災への対応 4 朝日原作氏の業績  5 おわりに(まとめ) 6 参考文献

今回の研究調査で、多くのことがわかった。
 北伊豆地震に対する朝日町長の対応について。
 それは、「単なる復旧ではなく復興だった。」
 朝日町長は、地震発生当時、町長が空位となっていた三島町で、急遽町長となったが、その突然の町長就任にもかかわらず、全国の都市に60通を越える災害の救済要請の電報を打ったことで、たちまち全国から多くの儀礼金・慰問品が送られてくることになった。こうした素早い判断ができたのは、朝日町長の柔軟な発想によるものであると思う。朝日町長は災害への救済と復旧に昼夜をとわず、全力で努力すると同時に、この未曽有右の大災害を単なる復旧にとどめることなく、これを逆手にとり、積極的創造的な都市計画を立てたのである。この計画は、三島市の都市計画の概要にあるように都市計画法の適用を見るに至った。
 その都市計画の1つに、三島を東西に貫く東海道の拡幅があった。これは、多くの街道沿いの商家の人達に、大反対あったが、情熱をもって説得し実現をすることになった。計画では東海道20m、下田街道は15m であったが、実際には東海道15m、下田街道が11m になった。当時の道幅が三島市誌によれば、東海道三間三尺(約6メートル)、下田街道が二間三尺(約4.5メートル)であったので、ほぼ2倍になったことになる。
 このことが実現できたのは、どんなに激しい反対にあっても、自分の理想を持ち、その理想を実現するために、所信を貫く、たとえワンマンといわれても人の評判を気にしない、その政治信念があったからこそだと思う。
 さらに、この政治信念は小学校などの施設の建設でもあらわれる。第一小学校(現在の三島市立南小学校)・第二小学校(現在の三島市立東小学校)を同じ場所に建設することにこだわらず、新たな場所に移転させた。特に、第一小学校は中央町にあったものを、はるかかなたの田園の中柊木(現在の三島市富田町)に移転させた。これには、多くの父兄たちが驚いたことはいうまでもない。それだけではなく、県の方針は震災後の復旧にとどめ、復興であってはならないという厳しいものであったが、第一小学校(南小学校)の新しい校舎は元の校舎の2倍半となり、堂々とした復興工事であった。
 県の方針にあえて逆らい、単なる災害の復旧にとどめることなく行った第一小学校(南小学校)の建設工事は朝日町長が自分の理想を実現しようとする悲願の現われであったといえよう。
 この他、朝日町長の業績として、三島市立公園「楽寿園」の設立・市設無線局による超短波放送による声の弘報機関がある。
 最初に三島市立公園「楽寿園」の設立ですが、前述したように、三島市立公園「楽寿園」が成立するまでの歴史を見ると、この地は最初、神社・寺院のある聖地としての信仰の対象の地であり、それが皇族の小松宮の別邸、韓国の皇太子李王世子垠殿下の別邸、さらに緒明氏の所有となり、一般の三島の人達からすると、恐れ多く、敬うべき存在の場所ということになった。要するに、この地は昔から三島の町の人達にとって、とても思い入れのある特別な場所であったということだ。そして、市民の強い要望もあり、緒明氏との交渉の結果、三島市立公園「楽寿園」となったのだ。その名前の由来は前述した「楽寿の間」からとり、これを朝日市長が提案した。「楽寿園」は開園後、市民の憩の場、市民の娯楽の場と三島市民にとって無くてはならないものとなっていったのである。このように市民にとって、かけがいのない場所である市立公園「楽寿園」を作った朝日市長の業績はとても大きなものであると言えよう。
 しかし、現在「楽寿園」を作ったのは、朝日市長であるということを知っている人がいるのだろうか。私たちは、沼津城北高の生徒152名にアンケートを取ってみた。そのアンケートによれば、ほとんどの人が「楽寿園」を知っていて、実際に行ったことがあるのに、1人も知っている人はいないという結果だった。
 これは、沼津城北高生だけでなく、「楽寿園」の周辺の市町の多くの人達に聞いてもこのような結果になると思う。前述したように、地域の人達の憩の場・娯楽の場としてかけがえのない「楽寿園」を作った朝日市長の事は多くの人達に知ってもらいたいと思う。
 次に、市設無線局による超短波放送による声の弘報機関についてだが、今ではどこの自治体でも行われている無線放送であるが、それを全国に先駆けて行ったことは、朝日氏の発想はとても先進的であり、この取り組みも朝日氏の大きな業績である。
 今回の研究で、朝日原作市長の多くの業績が分かった。しかし、どれだけの人が朝日市長の業績を知っているのだろうか。知らないと思われる。私達はこの朝日市長の偉大な業績を多くの人達に知ってもらいたいので、「朝日市長」に関する発表をする機会を作って、全国に発信していきたいと思う。

15m に拡大された旧東海道、大通り三島広小路駅から、東を望む。
三島市立公園「楽寿園」正門

 【目次(TOP)】【地域文化研究部門(団体)】【地域文化研究部門(個人)】【地域民話研究部門(団体)(個人)】【学校活動部門】