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佳作
「ユウジンクラゲ」 田口 綾乃 (岐阜・恵那高校2年)
「旅行」 磯部 美咲 (埼玉・星野高校3年)
「さいごの日」 青山 琴和 (大阪・四天王寺高校2年)
「月の裏に住む鯨」 須藤 春花 (千葉・大原高校2年)
「七つで一つ」 武藤 花依 (福岡・筑紫女学園高校2年)

 

佳作 「ユウジンクラゲ」 田口 綾乃(岐阜県立恵那高等学校2年)

浴槽にたっぷりと溜まった水。半透明のゼラチン質の体、傘状のフォルムと長い触手。私のお風呂にクラゲが浮いている。なんの覚えも、心当たりもない。
 昨夜は確か友人と一緒にゲームをしていた。お菓子にコーラ、ちょっとお高いアイス。両親が海外出張中なのをいいことに、普段はできない贅沢を楽しんでいた。一段落着いた頃、風呂に行った友人を待ちきれずに寝てしまったはずだ。脱衣所のカゴには昨日友人が着ていた服が入っている。しかし、彼女がいない。
 消えた彼女、浴槽の中のクラゲ。浴槽に手を入れてみる。クラゲは私の手の周りをくるくると回りながら泳いでいる。クラゲってこんなに人懐っこい生き物なのだろうか。もう一度、遠慮がちに指を水に突っ込んだ。するとクラゲのひんやりとした触手が絡みついてくる。
「ミツキ、なの?」
彼女の名前をクラゲに向かって呼んでみる。肯定とも否定とも取れないような震えが少し可笑しかった。バスルームの磨りガラスを通り抜けてくるくぐもった夏の朝日が水に反射してキラキラと光る。
 こんな時こそインターネット、と思って調べてみるものの、「友人 クラゲ 変化」なんてアホらしい検索ワードじゃ何も出てこない。友人を検索ワードから外してみると、一件だけヒットした。どうやら妹がクラゲになった男性の話のようだ。その妹は両親から過干渉を受けていたらしい。最後に金魚鉢で泳ぐクラゲの写真が載っていた。ネット上の話
だけに信憑性にかける情報だ。この記事以外に更新されたような痕跡は無いから、コンタクトを取るのは絶望的だろう。
 スマホから顔を上げてクラゲの方を向いてみると、まだくるくると踊っていた。
「お腹空いたよね。なんか買ってくるよ」
浴槽をもう一度覗き込むとふわふわと泳いでいる。自由気ままに。
 クラゲの餌がありそうなのは街のペットショップかな。日差しが照り
つける海沿いの道を歩いて十分くらい。その道中、昨日のことを何度も何度も考える。
 彼女の母親からやっと許可が降りて、もう十何年近い付き合いの中で初めて私の家に泊まったんだ。軽快なチャイムがなって玄関を開けると彼女が嬉しそうに立っていた。最近買ったゲームとあとは買ってきてくれたお菓子とジュース。それにちょっとお高いアイス。彼女は夢みたいだね、と何回も言っていたから、それが可笑しくって笑ってしまった。
「あー、ずっとこんな自由だったらいいのにな。」
どこか寂しそうに呟くと青い痣の付いた細い手でもう一度コントローラーを握り直す。
「その痣、どうしたの?」
質問をするとはっと顔を上げる。バツが悪そうに笑った。
「なんでもないよ。」
再びテレビ画面に視線を戻す。その横顔がひどく目に焼き付いた。
 気がつくともうペットショップの前にいた。
重たい扉を開けると、埃っぽい匂いがした。
「いらっしゃい」
 こちらを一瞥もせず手元に集中しながらおじさんは言った。
「あの、クラゲの餌ください」
ぴたり、と手が止まった。
「君、クラゲ飼い始めたの。」
「え、は、はい」
こちらをじっと睨む。
「なぁ、お客さん。お客さんにこんなこと言うもんじゃないと思うけどね、クラゲは自由な生き物なんだよ。人間が飼うべき生き物じゃないと思うんだ。」
おじさんは一息ついて続ける。
「クラゲはストレスに弱い生き物で、すぐに弱るからな…。」
そう言いながら、餌をビニール袋につめる。
「百円ね、まいど。」
「はい。ありがとうございます」
 店の外に出る。カッと日差しが差す。店の外には、雑に金魚鉢が転がっていた。もう一度来た道を帰る。横をむくと潮風が頬を撫でる。潮風に思わず振り向くと、青い青い海が広がっていた。水平線は空と交わりあって見えない。沖に白いヨットが見える。例えば夜の海に、あのクラゲはどう映えるだろうか。月の光を受けてキラキラと光る波を踊るように泳ぐんだろうな。
 家に帰り、風呂場に向かうとまだくるくると泳いでいた。ただ、朝よりも少しだけ元気がないような気がする。餌あげなきゃ。どうしようかな…。庭に出て、縁側の下を覗き込むと埃っぽい古い金魚鉢が転がっていた。散水ホースの栓を開き水を出す。
「あっつい」
太陽に熱せられた水がどぱっと出るが、段々と冷たくなる。金魚鉢にかけると埃は直ぐに流れ綺麗になった。室外機の上に乗った雑巾で軽く拭う。家の中に入って、浴槽からクラゲを抄いあげる。案外大人しく金魚鉢の中に納まった。買ってきた餌をペットボトルの蓋に水と混ぜて溶く。
それをちゅる、とスポイトで吸い上げ、金魚鉢にぽとぽとと落とした。クラゲはびっくりしたようだが、餌目がけて飛びつき、すっ、と吸い込むように食べた。
「美味しい?」
まるで美味しいよ、とでも言うようにまたくるくるくると金魚鉢の中を踊った。心なしか朝よりも元気がない。
 お腹がすいたので気の抜けたコーラと少し湿気ったお菓子を頬張る。昨日の味がした。食べ終わってぼんやりとクラゲを眺めていると、眠気に襲われる。だんだん、ゆっくり、意識が遠のく。目を瞑って、意識が途絶えた。
「私さ、クラゲになりたいの。」
「また言ってるじゃん。」
「クラゲはいいな、だって自由だよ。しつこい親も先生もいないんだよ」
表情が曇る。
「将来のことも考えなくていいんだ。だからクラゲがいいの。あと可愛いし。」
クラゲねぇ。可愛いとは思うけどな。足元による波が砂をさらって遠くへ行く。
「もし私がクラゲになったら、ここの海に返してね」
「何馬鹿なこといってんの。そんなことあるわけないよ」
えー、と口を尖らせて、ぱっと立ち上がる。そのまま海の方へ駆け出した。パシャリと水しぶきが上がる。日差しを背に受けてこちらに笑いかける。おーい、と手を振る。その腕が、足がだんだんと透けて、崩れて、
小さくなって…彼女は本当に幸せそうに笑っている。
 目が覚めると、外の日は落ち始めて薄暗くなっている。そういえば彼女の母親は心配しているだろうな。かなり過保護な母親だ。いつもなら電話一つでもあるはずなのに。こちらから電話だけしてみるか。小学生の頃から何度も何度もかけた電話番号。指は覚えている。慣れた番号を押して、数コール。
「はい、海藤です」
聞きなれた彼女のお母さんの声がした。
「もしもし、葵です。」
「葵、さん? どちら様でしょうか?」
困惑するような声が聞こえた。背筋が凍る。
「間違い…電話です、すみませんでした…」
「そうですか、気をつけてくださいね。」
ガチャリと受話器を降ろす。
 金魚鉢を覗き込むとクラゲがただぷかぷかと浮いていた。全く動かない。まさか死んでしまった…?頭が真っ白になった。家の鍵を閉めて金魚鉢を持って出る。急がなきゃ、私は二度も彼女のことを失ってしまう。
どうしよう、私のせいだ。こわい。
 ぼんやりと夢の記憶が蘇る。夢の中で彼女は海に返して欲しいと言った。そうするのが、彼女のためになるんじゃないか。人間に戻ってまた笑えたらという私の考えはエゴなんだろうか。彼女の体には小さな傷や痣があった。
「私って、おっちょこちょいだからさ、よく転んだりぶつけたりするんだ」
私の前では一回も転ばなかった癖に、そうやって笑ったのだ。昨日の腕の痣も、もしかして…。いつも笑顔だったけれど、心の底では悲鳴を上げていたのかもしれない。
「ごめんね」
足早に歩くと海に面した道に出た。金魚鉢を抱え、階段を降りると、そこはいつも遊んだ浜辺だった。
「ごめんね。辛かった、よね。」
クラゲに声をかけると、くるくるくると踊る。心配しないで、と言っているようだ。言葉は途切れ途切れでしか出てこない。次第に嗚咽に変わる。
「ごめんね、ごめんなさい。どうして、」
失うのが怖かった。心に穴が空いたようだ。私の隣には誰がいたんだろう。
「私こそ、ごめんね。葵」
誰かに話しかけられて顔を上げる。間違いない、彼女だ。
「葵といるのが、一番楽しかったよ。でも、もう、私は辛いの。」
「だから、私はこの海で泳ぎたい、葵との思い出が残ったここなら、私
は…。」
誰かは、ミツキは、笑った。笑い声と波の声だけが浜辺に響いていた。
「じゃあ、ここでいい?」
クラゲはくるくるくると踊る。いつになく嬉しそうだ。水面はキラキラと光っている。しゃがみこんで金魚鉢をそっと水に沈めた。水との境界線がなくなった金魚鉢から、クラゲはすっと外に泳いでいく。半透明な体が紺碧の海に染まっていく。
「ばいばい、ミツキ。」
海はただ静かに波をたたえている。潮風が頬を撫でる、沖へ向かって、ミツキの消えたほうへ、波の中を進んだ。

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佳 作 「旅行」 磯部 美咲(埼玉・星野高等学校3年)

無数のホバーエンジンの音、飛び交う火星語や土星語。私は、コスモステーションの第一ターミナルにいた。
 今日から父と二人でバカンスにでかけるのだ。行先はここから三億光年ほどの近場の観光地だが、普段研究で忙しい父が私との時間を作ってくれただけでよしとする。
 だが、その父が待ち合わせの時間になっても来ない。ただ待っているのも何なので、近くのコーヒーショップへ入る。今日は何が飲みたいのかを頭に思い浮かべた。すぐにAIロボットがそれを読み取り、コーヒーが完成する。甘さもトッピングも自由にできるので、とても嬉しい。
「すまん、遅くなった」
 父が待ち合わせの時間から二十分ほど遅れて到着した。
「もぉ、父さん遅いよ」
「悪い、悪い」
「会議が長引いた、でしょ」
「ははは」
 父は気まずそうに頭を掻いた。
「で、私達の乗る宇宙船は何番のゲートなの?」
「ちょっと持ってて」
 私にバッグを持たせると、父はコートのポケットを漁ってチケットを二枚取りだした。
「六番ゲート。お前がA席で、俺がB席だな」
「やった、窓側じゃん」
 父にバッグを手渡しながら、私は喜びを告げた。途端に案内放送がかかる。
『次の宇宙船の連絡をご案内いたします。第六ゲート、ハウメア星行キャンサー862便はただ今から搭乗ゲートを開きます。繰り返します……』
「これだね」
「ああ、行こうか」
 宇宙船の中に着き、ブランケットを受け取る。父の後について席まで歩く。けれど、席には間違って冥王人が座っていた。
「#&%!&&$?」
 父が冥王語で指摘すると、その人は申し訳なさそうに離れていった。
「お父さん冥王語話せたんだね」
「まあな、仕事で使うし。お前は今なに語習っているんだ?」
「うーんとね、土星語。火星語はこの間の最終試験パスしたから」
 席に着き、ブランケットを広げて上からシートベルトを締めると機内アナウンスが流れた。
『本日はキューブ飛行をご利用いただき、誠にありがとうございます。
当機はハウメア星行キャンサー862便です。まもなく出発いたしますが、初めにワープを三回ほど繰り返します。機内への振動は最小限ですが、念のためシートベルト着用のサインが消えるまでは席を立たないでください』
「なんか旅って感じだね、父さん」
「ああ、そうだな」
 二度目のワープが終わると父は寝てしまった。研究が続いていたから疲れているのだろう。かくいう私も、三度目のワープは覚えていない。
 水の中から浮かび上がるように眠りから浮上すると、父はいつの間にか起きていたようだ。機内サービスのコーヒーをすすっている。
「起きた?」
「うん」
 特にすることも、見たい映画も無かったので、適当に窓の景色を眺めることにした。
 流星群や小惑星がゆっくりと流れていく。
 流れていくものの中にそれはあった。
 ラムネのビー玉のように青く、澄んだ惑星(ほし)。
そこらへんの惑星の安っぽいライトブルーじゃなくて、プールの、水の、奥深くを手で掬ったような青色―。青色の光も輝きも、そしてその裏に鈍くくすぶる闇さえも含んだ、危うい色をしたその惑星に、私はしばらく見とれていた。
「どうしたの?」
 父の言葉に我に返った。
「父さん、あの青い惑星なんていうの?」
 父は私の肩越しにその惑星を見つけると、ああ、と呟いた。
「あれは『地球』だよ。お前も歴史の授業で習っただろう」
「習ってないけど……」
「あれ、ミドルスクールでは習わないんだっけか……。あの惑星は、ほんの千年前まで私達の祖先が誕生して、命を紡いでいた場所だよ」
「へえ、青が綺麗ね」
「海があるからね」
「ウミ? なにそれ」
「天然のプールみたいなものだよ、塩化ナトリウムが含まれているからしょっぱいらしい」
「ふうん、いつか行ってみたいな」
 プールは好きだ。あんなに大きくて綺麗なプールがあるのなら行ってみたい。
「無理だよ」
 そんな私の淡い希望を、父はあまりにもあっさりと壊した。
「なんで」
「あの惑星は、見た目は綺麗だけれど汚染されているんだ」
 と父は言った。
「第三次世界大戦は習ったね」
「う、うん」
「その大戦はね、核戦争と別名が付くほど核兵器を大量に使った。たくさんの核兵器を使えばどうなるか、想像できるだろう」
「放射線が……」
「そう、放射能汚染で地球は人間が棲める場所じゃなくなった。前々から宇宙ステーションに避難していた人間たちは助かった。それが俺たちの祖先だよ」
「……」
「放射能が薄れれば帰れるって学者もいるけど、俺は無理だと思ってる」
 父の目には光がなかった。
「そうなの?」
 「人間が棲んでいたときから地球は危なかった。人間の生物乱獲による生態系の破壊、経済活動による地球温暖化、ナノプラスチックによる健康被害……。戦争をやろうとそうでなかろうと、遅かれ早かれ地球は汚れていたよ」
 父は淡々と事実だけを語っていく。私には想像もつかない話だが、大変なことなのだろう。
「俺はね、今俺たちが宇宙ステーションで暮らしているのは人間の罪の具現化なんだと思うよ。いくら便利な空間だって、あそこは異様だ。無機質な白い空間に架空を信じているんだ」
 私はこの時、父の話の半分も理解できなかった。
 ただ理解できたのは、あの美しい惑星は思った以上に闇を含んでいる、ということだけだった。
「あの惑星で人間は進化したが、同時に目に見えないけれど、大切ななにかを亡くしてしまったんだね」
 父の目は悲しげにどこか遠くを見つめていた。
 二度目のアナウンスが鳴る。
『まもなく当機は目的地に到着いたします。再度ワープを行いますので、シートベルトをしっかりお締めください』
 ワープのためにゆっくりとワープ点に動いていく宇宙船の中から私はあの青くて、美しい惑星を、エゴで汚れてしまった惑星を、見えなくなるまで見つめていた。

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佳 作 「さいごの日」 青山 琴和(大阪・四天王寺高等学校2年)

明日、母は二度目の死を迎える。
 「お母さん、おはよう」
私はそう言いつつキッチンに向かい、パンを皿にのせ、水を入れたコップを居間に持っていく。そのついでに金属片をパンの上に乗せ、一分ほどで回収する。この金属片は食材の上に置くと自動で食品を感知して味を調べてくれるのだ。そして、卓上の私が幼いころに亡くした父の写真に手を合わせてから、その金属片を母に渡した。
「いただきます」
その声とともに母は金属片を飲み込んだ。
「今日のパン美味しいねぇ。いつ買ったの?」
「あぁ、仕事帰りに美味しそうだったからその時に買った」
 母は人間として一度死んだ。国の法律として、七十歳になったとき安楽死するか体を機械に変えて生きるかを決めなくてはならないというものがあるのだ。この国では、七十歳を超えた人間の人口が爆発的に増えており、介護の必要な人間が増えた。そうしたことから介護の必要な人間を減らす一環としてこの法律が制定されたのだ。
 もし、体を機械にすると介護は不要で、体の具合が悪くなることもない。見た目も生きている人間とほとんど変わらず、睡眠はデータ整理のために一定時間必要とし、食事は金属片を口に入れることで行う。金属片を浸すために作った料理は近所の人にあげるか専門の機械に入れて数日すれば自動的に豚や牛の餌に加工され、それを専門の業者が引き取り
にくるのだ。
 また、自分が人間だった時の記憶は引き継がれるが、『幸せプログラム』というものにより、自分が機械であるということや死を恐れるということは記憶から消される。機械になってからの死期は人間だった時の体の状態で決められ、死期を迎える時はある日夜寝たら次の日の朝にはもう目が覚めなくなるのだ。死ぬまであと何日というのは本人以外の家族しか知ることは出来ない。数か月前に帰省した際、母が寝ている時に母の死期を調べたところそれが明日だったのだ。もちろん、あえて家族も死期を知らずに過ごすこともできる。しかし、私はそうはしなかった。父が急性の心臓の病気で突然死んだとき、父に対して自分が感謝の一言すら伝えられなかったことを悔やんだからだ。私は死ぬ前日くらいは母と一緒にいようと、旦那と二歳の息子を家に置いて実家に戻ってきたのだ。
 母の体を機械にするときには母とずいぶんもめた。七十歳で死にたいという母と機械になってでも生きてほしい私。決着は私の一言でついた。
「お父さんが私の小さい時に死んじゃったんだからお母さんは長生きしてよ!」
この一言で母は自分の体を機械にすることに決めたのだ。今思えば、父のことを持ち出したのは卑怯だったと言わざるを得ない。でも、そんな卑怯なことをしてでも、私は母に生きてほしかったのだ。だが、母が機械になる日行ってきますと告げた表情を未だに忘れることは出来ない。
「お母さん、今日の晩御飯は私が作るよ。何がいい?」
「じゃあ、カレー」
「分かった。じゃあ、私、仕事してくるね」
「頑張りなさいよ。お昼は何か作って待ってるわ」
という母の声を聞きながら私は昔使っていた自室に向かった。最近、会社はリモートワークが当たり前になっているのだ。
 部屋をノックする音が聞こえる。時計を見ると十二時三十分だった。
「はーい、今行く」
そう母に言ってから『今から昼休憩にします。』と上司に連絡をした。
 昼間のワイドショーを見ながら母は金属片を飲み込み私はうどんを啜る。
「あんた、どうしてこんな時期に帰ってきたの?」
「……なんとなく。今だったら仕事も落ち着いてるし、息子も旦那が今日、仕事が休みで見てくれるから」
嘘だ。本当は仕事が立て込んでいるし、息子の面倒を見るために旦那には育児休暇を取ってもらっている。でも、母に余計な心配はかけたくない。
「ところで、最近、昔あった関節痛もすっかり消えて今は楽だわ」
「……そう、良かったね」
お母さん、それは体が機械だからだよ。あぁ、本当に母は自分が機械である自覚がないんだ。しかし、それを本人に伝えても『幸せプログラム』がある限り意味が母に伝わることはない。でも、そんな機械の母とこうして話すことが出来るのは今日が最後なのだ。しかし、私は母と何を話せばよいか分からなかった。
「あ、もう仕事しなきゃ」
とまだ昼休憩の終了する時間をさしていない時計を見て逃げるようにリビングを後にした。
 「ふぅ、終わった」
仕事を終え、時計を見ると午後五時を指していた。
「夕飯の買い出しに行かなきゃ」
そう思ってリビングにいる母に一声かけてから行こうとすると食卓の上にはジャガイモやニンジンや色んな具材が置かれていた。
「カレーで要りそうなもの、ネットで頼んだけど足りる?」
「うん、足りるけど……。白菜とかネギはいらないよ」
「あぁ、それは明日の夕ご飯にしようと思って」
思わず、言葉が詰まった。
「どうしたの?」
そう母に言われ我に返る。
「いや何でもない。今から料理してくるね」
私は母の顔を見ずに、キッチンへ向かった。
 カレーを作り終え、食卓に自分の分だけのカレーを置く。カレーを認識している金属片を母の前に置く。
「いただきます」
私は無言で食べる。
「やっぱり、あんたのカレーはおいしいねぇ。ニンジンがいい感じの硬さよね」
金属片を味わいながら母は言う。
「お母さん仕込みだから」
そう答えて、私は母の死期を知ってからずっと思っていたことを聞きたくなった。
「お母さん、明日死ぬとしたらどうする?」
母は少し考えて言った。
 「こんなに元気ならまだ死にはしないよ。でも、もし明日死ぬとしても、怖くないな。死は苦しいものじゃないと思うから」
……そうか。これが『幸せプログラム』の出した答えなのか。釈然としないものが胸に残った。
 食事の後、母は風呂に入った。機械でもとても防水性が優れているため風呂に入ることができるのだ。母が風呂に入っている間、私は考えた。『幸せプログラム』によって死を恐れるということを忘れたまま死んでいく母は幸せなのか。一方で、突然死を予感した父はその時、何を思ったのだろうか。病気をすることは無いが食事は金属片でしか行えない母と死ぬ前日まで自分で本物の食材を食べることのできた父。両親のどちらが幸せだったのか私には分からない。
「風呂出たよ。あんたもさっさと入りなさい。明日仕事なんでしょ。もう私は寝るからね」
その声で母が風呂を出たことに気づく。母を見ると寝室に向かおうとしていた。
「お母さん」
母が振り向く。
「今まで、ありがとう」
その言葉を聞いた母は少しきょとんとして言った。
「いきなりどうしたの?」
心がずきりと鈍く痛んだ。
「……何でもない。おやすみ」
「おやすみ。あ、明日の朝ごはんはあんたの好きなおにぎりね」
そう言って母は去った。私は母を見送った後、顔を覆った。
 次の日の朝、私は旦那に電話を掛けた。
「もしもし」
「もしもし。もう起きてた?」
「うん、お義母さんは……」
そういう彼の言葉を遮るように私は言った。
「あなたが年を取って、あの子が大きくなって、もし機械になってでも私に生きてほしいって言っても私は機械にならない。あなたやあの子に私の人生の最期の選択まで背負わせたくないから。私、死ぬのは一度でいいわ」
私は、一方的にそう告げ電話を切った。そして、母の寝室に足を運ぶ。
私が部屋に入っても母は動かなかった。私は枕元によった。
「お母さん、私のわがままで機械にしてごめんなさい」
普段なら優しくその声に答えてくれる母はそこにはいない。そこにあるのは、もう二度と動かない機械だった。
 母は今日二度目の死を迎えた。

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佳 作 「月の裏に住む鯨」 須藤 春花(千葉県立大原高等学校2年)

『人は月の裏側を悪だという。』
 読んでいる本の一節の表現に懐かしさと僅かながら稚拙さを覚えた。社会人になった今、仕事道具と成り代わった一眼レフカメラのレンズに視線を向けた。
~~
 夏休みも片手で数えられる程度になった今日の昼間。気の早い写真部部長の提案により、急遽開催された文化祭に向けてのミーティングに皆瀬景は物憂げながらも、参加していた。しかし、それは早々に終了となり皆が帰路に就く中、景はただ一人本校舎四階の隅にある図書室に馴れた足取りで向かい出していた。
 夕刻、朱色を帯び始めようと白みがかった空が時の経過を物語っている。景は熱中していた文字の羅列から一度目を上げ空の様子を見ると、そろそろ帰路に就く準備を始めようかと考えたが、重たい腰は中々上がらない。
 晩夏を思わせる涼しい風が、空を流れる雲を急かしている。雲の流れはアンニュイな気分を燻らせた。かの有名な太宰治が惹かれた十四歳の女生徒でさえとりとめのない感情を燻らせていたのだ。この位は許して欲しい。と、景は誰に情状酌量を訴えるでもなく、ただ自分の中に免罪符が欲しいだけだと生産性のない思考を切り捨てた。そして、ぼんやり
と文字を目で追うだけの作業となってしまっていた読書に再び意識を傾けた。
 読書に夢中になっている間に空の半分は朱色に染まり、うっすらとたなびく雲が空のグラデーションをより儚げに際立たせていた。斜陽の光が差し込む図書室は、漂っている埃をきらきらと反射させ、ページをめくる音が静寂に溶け混ざり、微睡みが広がる空間を成していた。
 景は我関せずとでも言うように、ぺらり。……ぺらり。またぺらり……。と、たっぷり間をあけページをめくり続けている。今日読み始めた本は終盤の局面を終え終幕に向かうだけだろう。集中力の高さが窺える。この集中力では、コツコツと遠くから図書室に向かって歩いてくる足音に気付いてすらいない。
 足音は図書室の引き戸の前で止まると、ガラガラと音を立てて図書室に入ってきた。景は突然の音に驚き、肩をビクつかせながら顔を上げ視線の先に立っている人物の顔を認識すると、少し目を見開いた。その人物はこの学校の教師であった。何ら驚く事はない。しかし、頻繁に図書室を利用している景にとっては、果てしない違和感を覚えたのだ。
 二宮敬人。この好青年は化学教師である。細身の黒いスラックスに薄紫色の皺一つ無い半袖のワイシャツを着こなし、薬品の香りの奥に、ほんの少しの煙草の匂いを纏わせている。古本のほこりっぽい匂いが染みついているこの図書室において、些か特異で滑稽な存在に映っていた。
 当直の仕事で校内を巡回していた敬人も又、小さく声を上げていた。今、この時、この場所に、生徒が一人で居る事に少し動揺したが、景を認識するやいなや、処世術に長けていそうな余裕のある笑顔に戻った。
 一年前の秋の終わり頃、景の撮った作品がコンテストで大賞を取り新聞部がインタビュー記事を発行していた。
『たまたま読んでいた小説の景色に似ていて、気付いたら夕空にレンズを向けていました。有り難い事に賞を頂く作品の殆どが、読んでいた小説の情景にインスピレーションを受けた物ばかりです。沢山の物語に触れていたのが功を奏しているだけなのですよ。』
などと書かれていたのがどうにも敬人の印象に残っていて、『写真ではなく、随分と本に情熱を注いでいる子だな』と、本に明るくない自分とは表裏を成していそうで思わずクスリと肩を揺らしてしまった、一人の生徒の印象を形作ったあの小さな出来事を思い出した。
 双方の視線がぶつかり合うと景は、様子を窺うように軽く会釈をした。声を発さなかったのは早く立ち去ってほしいという、ささやかな反抗である。しかし、敬人は何処吹く風だと気にもせず、ゆっくりと景の元へ歩み寄った。平たく言えば好奇心を擽られていた。
「随分と分厚い本だね。面白い?」
「面白くなかったらこんな時間まで読んでいないですよ」
景は諦めたようで気怠げに本を閉じた。今にも溜息が聞こえてきそうだ。
「はは、それもそうか」
敬人は流れるように景の対面の椅子に腰を落ち着かせた。濃くなった斜陽の光で長いまつげが瞳に影を落とし叙情的に見える。刹那、静寂が訪れたかと思えたが、敬人が空気を振るわした。そしてこれは景の感情に動揺を誘うモノでもあった。
「今年の一年に大層綺麗な写真を撮る子が入ったんだってね。聞いたよ」
景はもう一度開こうとして手に掛けていたページから手を離し、本を机に置いた。
「そうですね。綺麗に被写体を捉えられる子ですよ。色彩感覚も良いですし。強烈な写真ばかりでした」
「ふーん。それで今年の文化祭のメインになる作品が皆瀬の作品じゃなくなる可能性があるのか」
「……その話はどこから聞いたんですか」
語尾が震えた。図書室の空気が沈む。水槽にごぽりとアクリル絵の具でも垂らしたようだ。水槽の金魚は息も出来ないだろう。この話題こそ、景が家に帰りたくなかった要因である。
 画家の母の元に生まれた景は、幼少から数多の画材に触れ、色彩に触れていた。それは図らずとも色彩感覚を豊かにしていった。画力に自信が持てなかった景はシャッターを切る事に必死になった。母の突出した才能に自分が滲まないように躍起になった結果、景の撮る作品は大勢の人間を魅了し、過剰な期待を向けられ孤独が至高だと勘違いさせた。そ
れは小さな少女には息苦しさを与えただけだ。去年撮った作品以降、景は満足にシャッターを切る事がなくなり、スランプと形容するほかない。その中で新進気鋭の新人が登場とあれば気を揉むのも頷ける。
「そんな顔しないで。顧問の先生が言っていたのを小耳に挟んだだけ。
冷やかしている訳じゃない。純粋に残念だなって思ったの。去年賞を取っていた作品、文化祭で飾られていたでしょ。あれ結構印象深くて」
「慰めは求めてないです。ただ怖いだけですから。自分が信じていたレンズ越しの世界が、ある時から虚像ばかりに思えてきて、カメラを構えるたびに焦燥感に駆られるだけ、で」
 空が夜に溶け出していた。宵の明星の揺れる光が訳もなく景の濡れる瞳に重なって見えて、敬人は消え入りそうな不安に揺らぐその瞳に過去の自分も重ねてしまった。
「大多数の人間と違う事が怖かった俺が言うのは説得力に欠けるかも知れないけれど、皆瀬は皆瀬の見ている世界に自信を持って良いと思う。大勢の人間よりも色の判断が出来ない俺でさえお前の作品は目を閉じたら瞼の裏に浮かばせる事が出来るぐらいには印象に残ってる」
「色の判断が出来ないっていうのは、そのっ」
「色盲。詳しく言うと、赤を認識出来ない。だから皆瀬にとってあまり意味のない事を言ったかも」
景の瞳は先程とは違う揺れを宿していた。敬人はいつもの笑顔のままだ。
「もう、怖くはないんですか?」
「うん。52Hzで鳴く鯨って知ってる?」
「いや……」
「俺に孤独なんてほとんど存在しない事を教えてくれた鯨の話。聞いてくれる?」
景は小さく頷いた。
「この世界に一頭だけ他の鯨よりも高い周波数で鳴く鯨が存在している。周りの鯨はその声を認識できない。だから学者たちは『世界一孤独な鯨』と呼んでいるんだ」
敬人は目を細めた。この教師の目には鯨がきっと映っているのだろう。
「最初は可哀想な鯨だと哀れんだよ。誰もその声に気付いてくれないなんて。一頭だけ違う世界に居るようだなって」
経験則のように並べられるその言葉は敬人そのものを表しているようだった。景はそれをただ静かに聞いていた。
「そう思うと親近感がわいた。孤独な世界で息をしている。そんな親近感だった。でもそれは違ったよ。この鯨の声は各地の色んな海で観測されている。こいつは自由だった。海の広さを知っていたんだよ。この鯨を『孤独』だと言うには随分世界の見方が狭く感じた。だから俺は世界を知ろうと思った。そうしたら独りである事が怖くなくなったんだ」
 寂光を纏う月が夜に濡れた空に昇っていた。話は終わりだとでも言うように敬人は席を立った。景も宙に浮いた気分のまま席を立つ。
「だから皆瀬が皆瀬の見ている世界を否定してもそれが間違っている世界にはならないと思うよ。独りを謳歌している鯨が居るように、自分の世界を確立していれば皆瀬は強いよ」
景はどう反応をしたらいいのか困っていた。
「……先生は月の裏側を悪だと思いますか」
「裏側だろうと月は月に変わりないし、もしそうなら陳腐だと思うよ」
余裕のある笑顔がよく似合っていた。
~~
 教師は些かずるい人間だ。感謝を伝えても当たり前だと返された。それが学生時代から少し寂しく感じてしまう。だから、私は明日、花と撮り溜めた写真を携えて先生に会いに行く。お線香の匂いは少し苦手だけれど。

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佳 作 「七つで一つ」 武藤 花依(福岡・筑紫女学園高等学校2年)

「ゆずちゃん、あーそぼ」
 チャイムの音が鳴って、いつもの声が聞こえた。同い年の女の子、はしゃいだ声が六人分。「いいよお!」と答えるのもいつも通りで、わたしは首から下げた鍵を揺らし、スニーカーに足を突っ込んで、重い玄関ドアを思い切り押し開ける。
 別に家が近所だったわけでもないし、親どうし知り合いだったわけでもない。たまたま同じクラスだったという、それだけだった。小学校に入学して、まだ右も左も分からないような頃、なんとなく席の近い子どうしで集まって喋っているうちに仲良くなって、いつの間にかするりと友だちになった。なんだか夢みたいだと思ったのを、わたしは今でも覚
えている。……きっとそれくらい嬉しかったのだろう。わたしにとっては初めての友だちだったから。
 それから季節がめぐり、学年が上がってクラスが離れても、わたしたち七人は許される限り、いつだって一緒にいた。誰かが風邪をひいて休めば、六人で連れ立ってプリントを届けに行ったし、遠足では決まって七人でシートを並べてお弁当を食べたし、よほどのことがなければいつもみんなで一緒に帰った。お菓子も七人で分けて食べたし、漫画も七人
で回し読みした。
 夏休みになると、誰かの家でお泊り会をすることもあった。泊まる家は毎年交代で、小さなリュックに、着替え、水筒、ゲーム、算数ドリルなどなど、とにかくめいっぱい詰め込んで、ぎらぎら照りつける日差しの中を、日焼け止めも塗らないで走っていった。プールに連れて行ってもらったり、夜遅くまで布団の中で喋ったり、誰かが拾ってきたセミの
抜け殻を放り投げて、みんなで大騒ぎしたりもした。
 わたしたちは、単なる友だちというより、もう血の繋がったきょうだいのような、そんな感じの関係だった。
 小学校四年生の冬、小学校で科学館のチケットをもらった。毎年配られているのに、気付いたらランドセルの底でくしゃくしゃになってしまっているのがお決まりの、てかてかした小さな紙だ。けれどその年は違った。せっかくだから一回くらい行ってみようよ、というわたしの提案で、週末に七人みんなで電車に乗って行くことになったのだ。
 そのチケットは、科学館内のプラネタリウムを無料で見られるというものだった。チケットが配布される少し前に、わたしたちはちょうど理科の授業で月と星について習っていて、そこの単元の教科書に載っていた宇宙の写真があんまりきれいだったので、わたしは何度も繰り返し眺めていた。それが頭に残っていたというのもあって、「プラネタリウム」という言葉に反応したのかもしれない。
 出かける当日は冬晴れのいい天気で、その分風も冷たかったけれど、いったん科学館の中に入ってしまえば暖かかった。それはプラネタリウム内も同じで、小さくオルゴールの音が流れる薄暗いドームの下、席に座ると思わずあくびが漏れて、わたしは慌てて口を押さえた。体が沈み込んでしまうようなシートに座り、ぼうっとしていると、間もなく上映
が始まった。
 この回のテーマは冬の星座だった。冬の大三角形から、オリオン座の見つけ方、おおいぬ座やこいぬ座、おうし座にまつわる神話などなど、ゆっくりとした声で語られる話はみんな面白くて、わたしは眠気など吹き飛び、夢中になって聞いていた。
 おうし座の話に続いて、プレアデス星団の話が始まった。星座ではなく星団。聞き慣れない言葉だったので、わたしは首を傾げた。
 プレアデス星団はおうし座の一部で、日本名では「すばる」というらしい。若く青白い星がたくさん集まったもので、肉眼では六個から七個ほどの星を見ることができるという。星を取りまくガスが青白く光っていて、星がぼんやりとにじんでいるようにも見えた。それでもきれいな星団だ。
「ああ、わたしたちみたいだな」
 と、そのときふと思った。夜空に並ぶ明るい星が、なんとなくわたしたち七人に重なって思えた。
 プラネタリウムを出ると、みんなはしきりにあくびを漏らしたり、背伸びをしたりしていた。熱心に聞いていたのは私だけのようで、どうやらみんなは眠ってしまっていたらしい。
 それを見て、わたしは喉まで出かかっていたプレアデス星団の話を飲み込んだ。おそらく六人は覚えていないし、よく考えると星に自分たちを重ねるというのも子供っぽいような気がするな、と思い直した。自分に言い聞かせるようにそう思った。
 切符を買って家へ帰る途中、わたしはあまり喋らなかった。関係ない話をしたら記憶が薄れてしまうような気がして、ずっとプラネタリウムのことを考えていた。そんなわたしを六人は少し不思議そうに見ながら、それでもお喋りを続けていた。
 その日からも、相変わらずわたしたちは一緒に遊んでいた。もう外で走り回るような遊びはあまりしなかったけれど、誰かの家で宿題をやった後でゲームをしたり、お菓子を分けて食べたり、漫画を読んだり、――要するに、そんなに変わってはいない。
 何かのかたまりが、少しだけ喉に引っかかっているような気がしたけれど、それが何なのかも分からず、わたしはいつも通りの毎日を送っていた。楽しいに決まっている、もちろん。だって大して変わっていないのだから。
 だから、昼休みの教室で、「ゆずちゃん、最近なんか変だね」と言われたとき、少し面食らってしまったのだ。
「そう? わたし、変かなあ」
「だって、最近あんまり喋らないから」
 でしょ? という声に、「そうかも」「確かにー」といくつも同意が重なる。わたしは戸惑った。自分ではそんなつもりはなかったからだ。
「……えっと、なんかごめんね、ちょっと考え事してたのかも」
「大丈夫だよ、謝んなくて」
「ゆずちゃんと話すの楽しいから、もっと話したいなーって思って」
「また喋ろうよ、ね?」
口々に励まされ、背中をなでられ、わたしはどうしたらいいのか分からず、笑おうとした。笑おうとしたらなぜか涙が出てきて、もっとどうしたらいいのか分からなくなった。
「え、ゆずちゃん泣いてる?」
「ごめん、言わない方がよかったかな……?」
 わたしを囲む六人が一斉に心配そうな顔をするし、グラウンドへ向かおうとしていた男子数人が「あいつら泣かせたぞー!」なんて大声で騒ぐし、泣き止もうとしてもどうしてか涙が止まらず、服の袖で目をこすりながら、
「何でもないの」
「大丈夫だから」
 と、わたしは何度も何度も繰り返していた。
 それが四年生の終わりの出来事だった。
 五年生になり、クラス替えがあり、わたしは六人の誰とも同じクラスになれなかった。一緒に帰りはしていたけれど、放課後に一緒に遊ぶということはいつの間にかなくなった。ゆっくりとみんなから離れていくのを、頭のどこかで感じていた。寂しい、という気持ちはあった。でも、わたしは何もしようとしなかった。
 そのまま一年が経って、六年生になった。学校の話をほとんどしなくなったわたしを見かねて、母が中学受験を勧めてくれた。理系に強い学校で、わたしの好きな天体の授業もしっかり受けられるのではないか、ということだった。
 塾に通うようになり、わたしは六人と一緒に帰ることもなくなった。わたしは塾へ向かうバスに揺られて、算数の問題の解き方を詰め込んだり、年号を覚えたりした。帰りが遅くなるので連絡用にと持たされたスマートフォンに、六人の連絡先はなかった。すっかり喋らなくなってしまった六人とは、交換のしようもなかった。
 あっという間に夏が終わり、秋が終わり、冬になって、受験を迎えた。
合格通知書を受け取ったとき、わたしは泣いた。もうこれでおしまいだと思うと、体がふっと軽くなった。
「行ってきます」
 いってらっしゃい、という声を背中で聞きながら、家の鍵をカバンのポケットに入れ、ローファーに足を突っ込んで、玄関ドアを押し開けた。
 六月にしてはいい天気だ。最近じりじり暑くなってきたけれど、朝のうちならまだ耐えられる。汗を拭いながら、私は最寄り駅まで歩いていく。最近鳴き始めたセミの声が聞こえる。信号待ちをしている途中、道路の向こう側に見覚えのある六人が見えた。地元の中学校の制服を着て、白いスニーカーを履いて、何かを楽しそうに喋っている。本当に、いつも通りだった。あのときのままだった。けれどそこに私はいない。
 信号が青になり、私は歩き出した。六人も歩き出す。私の顔を見ると、六人は「あ」という顔をして、そっと目を伏せた。急に静かになった六人の横を抜け、私は道路の向こうだけを見て歩く。
 私たちはすれ違った。向かいの歩道にたどり着いたとき、私は自分が泣いていることに気付いた。視界がひどくにじんでいた。
 プレアデス星団か、と思った。
 確かにそうだったのかもしれない。

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