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【 最優秀賞 】

最優秀賞 「歓声.mp3」 西尾 実優(北海道札幌啓成高等学校3年生) 

 今にも心臓が飛び出してしまいそうだった。
「緊張してる?」
 ふいに右側から声が聞こえた。平均的な高さの、ざらつきを感じる声。「た行」の発音がやや甘い。水城だ、とすぐに分かった。
「少しだけね。他の高校も全部レベル高くて、自信ないなぁ」
「大丈夫だって、綾野が何回も何回も練り直した作品なんだから」
「そうだよ。私も、ドラマは行けると思う」
 同じく三年のアナウンス班、穂高が横から早口で捲し立てた。ハキハキと歯切れのいい声は、無意識に「もっと聞いていたい」と思わせる。穂高も共に県大会まで駒を進めた仲間で、大会三日目の今日、発表を終えた。肩の荷が降りたのか、声には安堵と隠しきれない緊張が滲んでいる。
「発表って何時からだっけ?」
「五時から。今は四時手前だから、結構時間あるよ。他校との交流時間みたいな感じになってる」
 水城が答えた。なるほど、だからこんなにも周りが騒がしいのか。
「ラジオドラマにも何個か質問きてたと思うけど」
「そうなの? 大会終わってからまとめてメールしようかな。他校と批評し合う気力なんて残ってない」
 綾野は笑った。結果発表を前にして、ライバル校の生徒とフレンドリーに交流できる人達は本当にすごい。素直にそう思った。発表を終えた時点で結果は決まっていると言い聞かせても、自分は全く吹っ切れることができない。
「私、交流行ってきてもいい? あそこの高校に発声のコツ聞いてきたい」
 うずうずと興奮を抑えきれない様子で、穂高が問うた。あそこ、というのがどこを指すのか綾野には分からないが、快く了承する。彼女が席を離れると、それを皮切りにして他の部員もちらほらと席を立ったようだった。衣擦れの音が重なる。
 最終的には席に一人残されたが、綾野にとっては好都合だった。結果発表前、加えて三年生引退前最後の大会というのもあり、非常にナーバスな状態なのだ。放っておかれる方が今はかえって心地がよい。
 綾野はリュックサックの中を漁って、IC レコーダーをふたつ取り出した。そのうち片方に巻き付いている有線イヤホンをぐるぐる解いて、きちんと接続されていることを指でなぞって確かめる。結果発表までは、まだかなりあるだろう。それまできっと部員も戻ってはこない。深く背もたれに体重を乗せるように座り直し、再生ボタンを押す。

『時刻は午後十時です。皆様いかがお過ごしでしょうか――……』
 ぶつ、ぶつと微かなノイズと、低くて落ち着きのある男性の声が鼓膜を揺らす。流れ出したのは、あるラジオ番組の録音だ。今となっては終了してしまっているものの、この番組が綾野の一番のお気に入りだった。パーソナリティは先程の男性一人のみで、ゆったりとした語り口調のまま淡々と駄弁るような内容になっている。そこには流行りの音楽も雑誌の話も何もなくて、ただ他愛ない日々の報告や、全国各地に潜むリスナーの近況報告などをずっと囁くように読み上げ、答えているだけだ。何が面白いの? と母には苦い顔をされたことがあるが、綾野の性には合っていた。
 ラジオはいいものだった。辛いとき、悲しいとき――姿の見えない「誰か」に向けて、たった一人で語り続ける人がいる。その姿はあまりに健気で美しい。そんな彼らの存在は、ふとしたときに押し寄せる憂鬱から常に綾野の心を救ったのだ。

『この番組は今日で終了、ですけれどもね、また再来週? から僕の担当させていただいた音声ドラマの方が始まりますので――』
 数あるラジオ番組の中でも、綾野が最も魅せられたのはラジオドラマだった。
 好きだったあの番組、その最終回で宣伝を聞き、綾野は彼が脚本家であることを初めて知った。知ってから、興味が移るまでは早かった。SEや間合いなどといった些細なものが互いに影響を受け、一つの場面が完成する。映像のある、世間一般的なドラマの類を初めから諦めてきた綾野にとって、これほど自身の空白を満たすものはなかった。ガラス越しの透明な世界に、ようやく光が差した気がした。

『一年三組の綾野です。目が見えません。ラジオを作りたいと思っています。よろしくお願いします』
 二年前の自分の声は、心做しか少し幼い。放送部の皆の前で初めて自己紹介をしたときの音声だった。
 幸運なことに、綾野は非常に耳がよかった。本来は視力に回るはずだった要領が聴力に集中したのだろう。音の反響などを聞き取るだけでなく、相手の声から感情や体調といったものを汲み取るのも得意だった。
『制作班の三木です。綾野ちゃんにしか見えないものがあるはずだから、是非積極的にラジオ制作に携わって欲しい。よろしくね』
 一つ上の三木はそんな綾野の能力を高く評価して、アナウンス・朗読班へのアドバイザーという役割を与えた。それからシナリオの書き方を教えてくれたのも、他ならぬ三木だった。
『ダメだったな――え、何? 悲しくないのかって……そんなのないない。綾野、手伝ってくれてありがとう。お前はいい部員になるよ、きっと』
 三木のラジオドラマは全国大会に進むことができなかったが、三木が結果に落胆することはなかった。だから、綾野も悲しくはなかった。「ありがとうございました」と礼を述べた三木の鼻声は、かつてないほどに澄み渡っていた。見えないが、涙も笑顔もきっと同じだったに違いない。

 過去に思いを馳せながら、綾野は次々と音声を流していく。

『じゃあ、部長から一言。残念ながら県大会突破とはならなかったけど――……』
 自分たちが二年生のとき。
『ねえ、次のドラマどうする?』
 ミーティングの記録。
『「もっと、あなたとくだらない話がしたいよ」 』
 レコーディング中。
『ここ、もうちょっとSEが大きい方がいいかもね。ボールがぶつかるシーンでしょう?』
 顧問の先生への最終チェックを通すとき。
『明日、頑張ろうね、』
 つい一昨日のデータ。自分の声。
 その次はまだ、何もなかった。

 イヤホンを外すと、外界の喧騒が一気に押し寄せて耳がキンと痛んだ。知らないうちに、傍に座る人々の気配が帰ってきている。
「どうだった? 交流会は」
「みんなラジオ褒めてたよ。綾野も来ればよかったのに」
 水城が苦笑する。行きたい気持ちはあったが、今なお心臓が強く速く打っているのを考慮すると、このままで正解だったとも思う。
 結果発表まであと五分。会場がざわめき出す。綾野はICレコーダーをリュックサックにしまった。「あのさ、」
「ラジオドラマって、世界を創ってる! って感じだよね」
 唐突な発言に、空気が揺らぐのが分かった。自分で言って、何ポエムみたいなこと言ってんだ、と笑いが込み上げてくる。でも、誰もそれを馬鹿にはしなかった。返ってきたのは、「世界?」という後輩の呟きだけ。
「初めはセリフしかないのに、足音のSEを入れたら、登場人物が歩き出すでしょ。さらに雨の音を追加したら、そこには雨が降る。そうして世界ができるの、箱庭みたいに。白紙に付箋を貼るみたいに」
 ドラマは一人じゃ作れないから。私、この仕事できてよかったなあ、なんて。
 次の瞬間、誰かに抱きしめられる感触がして綾野は驚いた。「いいこと言うじゃん」と高い声を上げるのを聞いてようやく、それが穂高だと分かった。同級生の細い腕の中で、綾野は小さく息をつく。
 こんな身体だから無理だって諦めて、全部、逃げてきたんだけど。こればっかりは違うから全力なんだ。
 光を持たずに生まれたこと。欠かさず聴き続けてきたラジオ番組。出場し続けてきた大会。全てが私の精神と地続きになって、今日の日まで続いている。願わくは自分も、あのように澄んだ声で「やり切った」と言えたなら。かつて夢を見せた脚本家のようにできたら。私の何かは変わるのかもしれない。
 ブザーが鳴って、照明がふっと落ちる。会場内は水を打ったように静まり返った。それから再度、ステージの照明が点く。
 コツコツと靴音を鳴らして出てきた男性が挨拶の言葉を述べる。その声は、何度も何度も聞いた、柔らかく淡々と語りかけるもの。
 綾野は録音ボタンを押す。マイクを吹く息、空気の震え、会場全体に張り巡らされている緊張の糸。
「それでは結果発表に移ります。まずは――」
 祈るような形で、綾野は静かに目を閉じた。その透明な瞼の裏側に、世界はどこまでも広がっていた。

 

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