【目次(TOP)】【最優秀賞】【優秀賞】【佳作】

佳作
「金魚」 窪 ゆき(東京・潤徳女子高等学校2年)
「知らない世界」 戸倉 悠貴(広島県立呉三津田高等学校1年)
「左側の花灯り」 和田 七望(東京・精華学園高等学校 探究アカデミー東京校2年)
「一皮」 田代 蒼太(埼玉県立浦和高等学校3年)
「夢想画家」 近藤 聖斗(愛知・桜丘高等学校3年)

 

佳作 「金魚」 窪 ゆき(東京・潤徳女子高等学校2年)

高校生になって二回目の夏休み。私は、公園の池に飛び込んだ。
 池の水深は見かけよりはるかに深く足がつかない、リュックの重さで体がどんどん沈んで行く、慌てて手足を動かすが藻が絡みついて上手く動けない、自分の中の酸素が泡になって溶けてゆく。
 最近は、本当になにもかもうまくいかない。以前より落ちたテストの点数、部活でも怒られてばかり、親との仲も悪い。現に私は今、真っ暗な泥水の中で死にかけている。
 もういいや。藻に絡まった手足でもがいても、体は沈んでいくだけで無駄な気がしてきた。
 全てを諦めていたその時、水が私以外のなにかの影響を受けて大きく揺れた。私の体が勢いよく上に引っ張り上げられる。
 突如、陸に上がった影響で、酸素が一気に肺へと入り込み、喉が痛んだ。
「大丈夫?」
「はっはい……ありがとうございます……」
 ガッと顔を上げ、声の主に目を向ける。年齢は私と同じくらいで、何よりも鮮やかな赤髪が印象的だった。
「まぁ、泳ぎは人より自信あるから」
「そうですか」
 彼は自分のバックから水筒を取り出し水を飲むと少し怖い顔でこう言った。
「それより、君。自殺しようとしてたの?」
「えっ!?いやいや、違います!実は、池に落ちたって言えば、怒られずに部活休めると思ったんです。けど、想像以上に池が深くて死にそうになっちゃって……」
 もしかして、心配してくれたのだろか、溺れた理由がしょうもなくて恥ずかしい。
「ふーん、じゃあ僕は君にとって命の恩人ってこと?」
「はい、そうですね」
 彼は邪気の入った笑みを浮かべ言った。
「じゃあ一つお願い聞いてくれない?」
 心配してくれていたと思ったがやっぱり違った。この人、私に恩を着せられるかどうか確認したかっただけだ……。
 しかし、命の恩人であることには変わらないため頷くことしかできなかった。
「今日の夏祭りでお面を売るから、それを手伝って欲しいんだ」
「……分かりました」
 内心、ものすごく嫌だった。
 今は夏休み終盤で、私は課題が全く終わっていないのだ。部活もそれをやる為に休みたかったのに、こうなるならちゃんと部活に行けば良かったと後悔する。
 最近、本当に上手くいかないことだらけだ。
「あぁ、売上の分ちゃんと払うから安心して」
 私の気持ちが伝わってしまったのか彼はそう付け足し、「ついてきて」と私の手を引いて歩き出した。
 三十分ほどすると、夏の暑さからか既に服も髪も乾いていた。そして、沢山の屋台が連なっている土手も見えてきた。どの屋台もまだ準備中といった感じで、祭り前の独特な雰囲気がある。
 彼に手を引かれるまま、『おめん屋』と大きく書かれた屋台の中に入り、私は目の前の光景にギョッとした。
「なんですか?これ?しかも沢山……」
 私はあるものを指差し彼を見る。
「お面だよ」
 確かにそれはお面だ。だが、そのお面は真っ白で、一番大事な顔が描かれていなかった。
「このお面に模様を描かなきゃいけないんだけど僕ちょっとセンス無くてさ。だから、君が描いてくれない?売るのは僕がやるから」
「こうゆうの私、初めてなんですけど……」
「自分がつけたいと思うお面を描けば良い感じになるから大丈夫だよ」
 そう言うと、彼は「他にも用事がある」と、どこかに行ってしまった。
 投げやりだな……。隣の屋台は金魚すくい屋だからか魚臭い。一つ息を吐いて、私は言われた通り、自分がつけたいお面を想像して模様を描いていく。元々、絵を描くのが好きだったこともあってか、段々楽しくなってきてしまい、いつの間にか置いてあった真っ白なお面には全て色がついていた。
 終わらせたことの達成感に浸っていると、丁度いいタイミングで彼が帰ってきた。
「わーすごい!どれも着けたくなるお面してるね、ありがとう」
 彼はお面を見ると目を輝かせ、少し大袈裟なくらいに褒めてくれた。
「ねぇこの祭り五日間やるんだけど毎日お面描きに来ない?」
 案外楽しかったことと、褒めてもらえたことが嬉しかったので、私は彼の提案にすぐ了承した。そして私は、彼に手を振り少しスッキリとした気分で家に帰った。
 それから、私は日を重ねるごとに彼とお面を作るのが楽しみになっていった。自分が創ったものが認められることが私にとってたまらなく嬉しい。彼の優しい声、揺らめく髪、白い肌。気付けば私の瞳はいつも彼を映している。
 だが、五日目の今日で祭りは終わりだ。
 最後の彼との共同作業が終わったら、私達の関係もこれで終わりにならないようにある事を彼に伝えるつもりだ。頭の中でその言葉を復唱し終え、お面作りを開始した。
 いつも通りのスピードで作業を終わらせると彼もまたいつも通り柔らかく微笑んで、お面のお礼を言ってくれる。その一つ一つの動作に心がはじけた。
「毎年祭りの最後に花火があがるから今日は最後までいてくれない?」
 私が口を開く前に彼がそう言った。
「分かりました」
 初日と同じ魚臭い匂いがまだ漂っているが不思議と嫌な感じはしない。
 彼を待つ間、普段より軽い足取りで屋台を周る。このお祭りのりんご飴もじゃがバターも全てが他より美味しい。次第に屋台を見ることにも飽きてきて、原っぱの上に寝そべる。
 しばらく目を瞑って心地良い風に身を委ねていると、真上から気配を感じた。
「ごめん待った?」
 彼が来たと同時に花火が上がり始めた。この人、本当にタイミングが良い。
 夜空にキラキラの光が華を描く。私達はしばらくその光を見続けていた。
 ふと、彼のほうを見るとなにか私に言っているようだ。だがその声は、花火の音に包まれ聞こえない。最後の花火が上がる前の間に唯一耳を掠めた言葉があった。
「綺麗だね、花火」
 たったそれだけ。しかし、それは私の心を大きく揺らした。きっと、その言葉は私で無ければ響かなかっただろう。
 結局、最後の言葉が耳にちらついて言おうとしていた事は言えないまま私達は別れた。
 複雑な気持ちで家に帰ると、珍しく母が家の片付けをしていた。
「おかえり、この水槽もう捨てちゃうね」
 あの水槽は私が昔可愛がっていた金魚のものだ。嫌なことがあった時はいつもその金魚に愚痴を吐いては元気を貰っていた。
「あと金魚の日記帳も出てきたからアンタの部屋の机の上に置いといたよ」
「分かった!」
 それを聞いた私は、自分の部屋に行き、母の言っていた日記帳のページを適当に開く。その瞬間、私はその日記帳に釘付けになった。
 日記帳には『ペットの金魚を擬人化してみた!』という言葉の下に、あの赤髪の彼と瓜二つのイラストが描かれていたのだ。
 そういえば、彼の名前も学校も知らない。急いでお祭りをしていた土手に向かうが、その土手には立ち入り禁止の高い柵が建てられている。よく考えてみれば、いくら隣の屋台が金魚すくいをやっていたとしてもそこまで魚臭くなるものか。彼は私が昔可愛がっていた金魚だったのだ。
 もしかして、私が最近落ち込んでいるのを知って元気づけようとしてくれたのだろうか。嬉しいと思う気持ちもあるが、もう彼とは逢えないと思うと胸がきゅうッと締め付けられるようなキツイ感覚もする。
 少し秋の香りが混ざった夏風を全身で浴びるように走り、家に帰った。
「ただいまー」
「おかえり、あんまり遅くまで出歩かないようにね」
「はーい」
 独りで部屋の壁に寄りかかり、この五日間の出来事を思い返す。ついこの間まで嫌なことばかりでネガティブになっていたのに、些細なこと一つで人は案外、前向きになれるものだ。まだ手に残るお面の形を感じながらそう思う。
「花火!」
 私の名を呼ぶ母の声が聞こえ、一旦余韻に浸るのを辞め、母を見た。
「夏休みの宿題終わったの?」
「あ!忘れてたー!!」
 新学期は明後日、私の絶望と焦燥が混ざった声が夏の夜空にこだました。

 

受賞コメント

 とても嬉しかったです。自分の未来が少し明るくなった気がします!ありがとうございました 。夏休みの宿題だったのですが、その中でも自分の将来やりたい事の糧になりそうだと考えたので気合を入れて応募しました。
 話のオチとあらすじを音楽聴きながら最初に決めました。そこに友達から聞いた話や、自分の経験した中で印象に残ったことを詰めました。特に思いという思いは無いですが恋人欲しいなぁと思いながら書きました。
 私は話には裏切りがあると面白いと思っていて、人に予想出来ないようなオチをつける工夫をしました。小説を書くのは初めてだったので自分の語彙の無さや、状況説明を文字だけですることが大変でした。話を考えるのはものすごく楽しかったです!! これからの創作にあたって、考えてる事を文字にする事と語彙力を高める事を学んだ方が良いと思いました。
 物心ついた時から好きだったので、魅力を説明するのは少し難しいですが、お腹が空いた時ご飯を食べると幸せになるような気持ちと同じな気がします。創作のこだわりは唯一無二な部分を取り入れることです。日常のルーティンは毎日遅刻ギリギリ学校を出て肺を鍛えることです。
 創作活動に興味がある人、創作活動を始めようとしている人は人生の経験値を上げると良いと思っています。

【目次(TOP)】【最優秀賞】【優秀賞】【佳作】

 

佳 作 「知らない世界」 戸倉 悠貴(広島県立呉三津田高等学校1年)

すっかり遅くなってしまった。僕は放課後、友人とファミレスで雑談などに夢中になっており、気づいたら時計は20時30分を指していたのである。ふと辺りを見渡すと、先ほどは多くの学生で賑わっていたはずが、気づけば仕事に疲れパソコンを開いたままウトウトしている会社員と机を拭く若い従業員のみになっていた。慌てて帰りのバスの時間を調べる。次のバスは21時となっていた。バス停まではここから歩いて十分程度の為、あと20分ほどはここにいられるなと思い、再度雑談を始めた。
 やってしまった。そう思った頃にはもう友人と僕以外誰もいなかった。ただお店は流行りの音楽しか残っていなかった。結局あれから30分ほど話込んでいて、もう21時を回っていたのだ。次のバスは21時30分だ。これを逃してしまうと22時になってしまう。家まではバスで40分だから、家に着くのは22時10分、それからご飯を食べてお風呂に入って寝るのは今日も23時過ぎるな…。そう指を折りながらため息をついて言った。後悔しながら暗い夜の街を早足で歩いた。ふと通学路の途中で足を止める。暗くなっただけでまるで違う場所だな、そうつぶやきバス停まで走り出す。
 バス停につき、ベンチに腰掛けた。とてもお腹が空いており、慰めるようにお腹を撫でる。それから数分して、バスが停車した。重たい足を無理矢理持ち上げ、バスに乗車する。時間が時間なためか人は見当たらなかった。後ろで若い少年たちの笑い声が聞こえる。僕は前の方の2人用のいすに急に力が抜けるようにドスッと座った。そして少年たちの笑い声を聞きながら、いつの間にか眠っていた。あれから何分寝ていただろうか。はっと目を覚ます。慌てて外を見る。しかし、外は暗くてよく見えない。少年たちの話し声が聞こえる。その時、僕が降りるべきバス停の名前がアナウンスで読まれた。よかった。そう思いながら「降ります」のボタンを押す。その時、世界を何か変えてしまったようなものを感じた。大きな音がしたとか、一瞬何かが光ったなどではない。何も起こってないはずなのに自分の第六感が強く訴えかけているようだった。お腹が空いていたからだろうと適当に解釈し、バスを降りた。いきなり雨が降り出した。
ん、今なんだか…。
 朝目が覚めた。なんだか何日もぐっすり寝ていたようにすっきりとした朝を迎えた。今日は休日だ。朝の散歩に出かける。僕は体力づくりのために毎朝走っているのである。なんだか不自然だ。いつもは犬の散歩やランニングをしている人が何人かいるのに今日は全く見かけない。ま、まさか…背中にひんやりとした汗を感じる。そういえばと思い昨日のことを思い出す。バスで感じた違和感。あのボタンを押した瞬間少年たちの話し声は聞こえなくなっていた気がする。そして、バスを降りた後にふと運転席を見ると、誰もいなかった…ような気がしたのである。あの時は暗くて確信がつけなかったが、僕の中でだんだん確信に変わっていた。あの時のボタンを押した時の違和感。咄嗟に近くのショッピングモールに走る。いつもなら、家族、学生などであふれ返っているがやはりいない。人一人いない。人の気配が全くないのだ。あのボタンを押したことで、この世界に人が僕以外にいなくなってしまったのである。その瞬間、僕の中の何かがはじける音がした。頭がパニックになる。それはそうだろう。急に世界に一人が取り残されたのだから。もしかしたらここにいないだけでまだどこかに人はいるのではないか。普通の人はそう考えるだろう。しかし僕はそんなことは考えてすらなかった。なぜなら僕は昔から悪い勘だけは必ず当たるのだ。僕は元通りにするためにどうすればいいか考えてみた。そうして出た答えがもう一回あのボタンを探し出して押せばなおると仮説を立てて、探すことにした。今、どこにあるか分からないが。
 あれから何年が経っただろう。伸び切って邪魔になった髪を結ぶ。体感では七年くらい経っただろう。今日もまたバスに乗ってボタンを押し続ける。一つ一つ、作業のように。すると、あるボタンを押した時、強い何かを感じた。あの時と同じ感覚だ。すると後ろから学生が「すみません、降ります」と声がした。振り返ると学生、買い物に行っている主
婦などいろんな人が座っている。久しぶりに人を見た。そしてしばらく感動でその場で硬直していた。すると学生は舌打ちをしてわざと僕に当たるように降りていった。だがそんなことどうでもよかった。それよりうれしかったのである。僕が一人の間、ずっと続いていた暗い曇りの天気がぱっと快晴に変わった。それは僕の心も同じはずだ。
 あのボタンはなんだったのか。あのボタンをもう一度押してみたが何も反応がなかった。もうどこにもないのか。それともまだどこかにあるのか。また誰かが押してしまうのではないか。疑問は尽きない。だが最後に大きな疑問がある。それは、人がいなくなった時。どうして肩の力が抜けて、頬が緩んだのだろうか。

 

受賞コメント

 まさか私が選ばれると思ってなかったため、驚いているというのが素直な気持ちです。 学校の夏休みの宿題で作文を書くというものがあり、その中で短編小説が書いてみたいと思ったので応募しました。
 正直、いざ書こうと思ったときはまったく思いつかず数日悩んでいました。そんなとき、どんなことを書きたいのかなどと考えた結果自分なりの世界観で書きたいと思い、今回の作品を完成させました。工夫したことは、読み手が情景をより鮮明に想像できるように工夫して表現したことです。苦労したことはやはり何を書くかを決めることでした。何を書くかを決めてからはすらすらと書き進めることができたため、苦労することはなくてむしろ楽しかったです。
 いままで、国語は苦手で特に物語文は大の不得意でしたが、今回の作品の創作を通して書き手側の気持ちを知ることができ、表現に込められた背景などが少しわかるようになりました。そして国語の問題を解くときに少しわくわくするようになりました。さらに、読書をする時間がこの創作前より増えました。
 私が小説を創作したのは、小学六年生の時に国語の授業で書いたもので最初で最後の創作となるはずでした。しかし、今回ありがたくこのような機会があったため再び小説を書くことができました。普段は本もあまり読むことがなく、三か月に一冊ペースでした。そんな私は小説の書き方もわかるはずがないため、自分が満足できるようなものが作れるよう何度も添削しながら完成させました。
 自分自身が創作していておもしろい、楽しいと思えるように心がけましょう。そうして書くときっといい作品が完成するはずです。

【目次(TOP)】【最優秀賞】【優秀賞】【佳作】

 

佳 作 「左側の花灯り」 和田 七望(東京・精華学園高等学校 探究アカデミー東京校2年)

「ねえねえ、こんな話知ってる?」
 長い髪をさらりと揺らしながら、先輩は小動物のような目で僕を見上げてくる。
「……知ってます」
「あ、ひどい!」
 先輩は、今度は頬袋に木の実を詰め込んだリスのようにふくれた。
「いや、だって、先輩が知ってる雑学って、だいたい僕が知っているものばかりなんで」
「今回は違うかもしれないじゃん!」
「分かりましたって……何ですか?」
「人間って、聴覚は最期まで残ってるんだって。だから、『ご臨終です』っていう言葉は、本人に聞こえてるんだよ。すごくない?」
「ふうん……?」
「知らなかったでしょ。ふふん、私の勝ち」
「いや、知ってましたけど。よりにもよって、この春爛漫を絵に描いたような日には、似つかわしくない雑学だなと思いまして」
 世界を優しく包み込むような陽射しと、花びらがはらはらと舞う桜並木の遊歩道。外出自粛が叫ばれている今、この桜は僕たちが独り占めしている。
「死にかけの世界、みたいだなって思って」
「人、少ないですしね」
 道を歩いているのは、犬の散歩をしている人や、大きな買い物袋を抱えた人ばかりだ。僕たちのように、特に目的もなくのんびりと歩いている人などいない。
「それに、毎日感染症のニュースばっかりだし。否応なく考えるよ、生きるとか死ぬとか。家に引きこもってばかりだと、余計にね」
 今日の感染者速報、死者数、医療現場逼迫。家の中で、そんなニュースと睨めっこしていると、心の奥が苦しくなっていく。アスファルトの上にジュースをこぼして黒いシミが広がっていくように、胸にじわじわと痛みが染み込んでいく。この散歩は、「心が窒息しちゃう前に、酸素をたくさん吸い込みにいこうよ」という先輩からの提案だった。
「最期の最期には、何を聞きたいかな。ね、りーくんは?」
「僕ですか?」
 僕が死ぬ時――ベッドの上に横たわって、意識が遠のいていくその瞬間、僕は何を聞きたいのか。どんな言葉で、送り出されたいか。あるいは、どんな音を聞きたいか。
「風の音ですね」
「なんで?」
「この風に乗って魂が天国に運ばれていくのかな、って思いながら死にたいです」
 できれば、春の風がいい。美しい桜の花を巻き込みながら、静かに天に昇っていきたい。
「死後の世界とか、信じるタイプだっけ?」
「暗いところで永遠に眠り続ける、って考えるよりも、天国で楽しく過ごせると思って死ぬほうが、夢があるので」
「りーくん、意外にロマンチストだよね」
 先輩は、僕を見上げると笑った。白い不織布のマスクが淡い陽光を弾いて、眩しい。僕は、思わず目を背けてしまった。
「あの、その『りーくん』って呼び方、いい加減やめてもらえませんか?」
「なんで?」
「高校生でしょ、僕たち。入学式が中止になったせいで、僕は実感が湧きませんけど」
「いいじゃん。私のことも、『先輩』なんて他人行儀な呼び方じゃなくて、前みたいに『かのねえちゃん』って呼んでくれていいのに」
「いつの話をしてるんですか……」
 僕と花音先輩は隣の家に住む幼馴染みだ。だから、先輩はいまだに僕のことを小さな弟のように思っている。それが、何だかくすぐったかった。
「……先輩は、どうなんですか?」
「何が?」
「最期に何を聞きたいか、です」
「私はね……」
 先輩は、うーん、と空を仰ぎながら唸った。僕もつられて、空を見上げる。桜の枝が天蓋のように広がり、抜けるような青空が目に沁みた。綺麗すぎて、現実味のない景色だ。
「私は、『大好き』って言われたいかな。ついでに、頭を撫でてもらえたら、もっと嬉しい」
「相変わらずですね」
「何が?」
「いえ、なんでも」
 先輩は――かのねえちゃんは昔から、僕を褒める時に必ず頭を撫でてくれる。それは、自分が頭を撫でられるのが好きだからだ。僕の背が伸びても、かのねえちゃんは必ず背伸びをして、僕の頭を大型犬を撫でるみたいにわしゃわしゃと撫でてくれた。
「あ、ごめん、ちょっと待って」
 その声に足を止めると、かのねえちゃんは、身を乗り出して足元をのぞきこんでいた。車椅子のタイヤを動かすハンドリムを、一生懸命前に押している。歩道の隆起した部分に、タイヤが引っかかってしまったらしい。
「僕、やりますから」
  車椅子の後ろに回り、少し力を込めて押す。かすかな音と共にタイヤが回り、前に進んだ。
「ありがとう」
「大変だったら、このまま押しますけど」
「そうしたら隣で話せないでしょ?それに、これからずっと車椅子だもん。腕力、ちょっとずつでも鍛えなきゃ」
「そうですか。じゃあ、その辺でちょっと休憩しましょう」
「気にしなくていいのに」
「僕が気になるんです、かのねえちゃん」
 かのねえちゃんが事故に遭った。下半身が動かなくなった。これからは車椅子生活になる。立て続けにそう聞いた時の衝撃が、あの時の目の前が真っ暗になるような絶望感が、今も心の奥で時折、その存在を主張する。込み上げてきた無力感と、苦い涙の味と共に。
「ようやく『かのねえちゃん』って呼んでくれた」
 かのねえちゃんが手近なベンチの横に車椅子をとめたのを確認して、自販機で缶のオレンジジュースをふたつ買った。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 かのねえちゃんの右側のベンチに腰を下ろす。木の座面がほんのりと温かかった。
 マスクを外すから、という理由で、僕はかのねえちゃんに背を向けてオレンジジュースを飲んだ。
「外なんだから、気にしなくていいのに」
「二メートル離れていないので」
 マスクも、休校も、外出自粛も、僕にとっては有り難いものだった。この顔を、周囲にさらさなくていい。憂鬱な高校生活も、まだ始まらない。
「りーくん」
「……なんですか」
「その痣、気にしなくてもいいんだよ」
 僕は、無意識に右の頬を触っていたことに、はっとした。思わず、頬の内側を噛む。
 かのねえちゃんが左、僕が右。昔から、それが僕たちの定位置だ。右側に誰かがいると、僕は痣をじっと見られている気がして落ち着かない。だから、自然とこの位置になった。
「でも……」
「生まれつきの痣の色が濃くなってきて、コンプレックスなのは、分かるよ。ほっぺの、目立つ位置だし。でも、そんな痣ひとつで、りーくんの価値は変わらないよ」
 僕は、思わずかのねえちゃんの方を見た。同じ高さの目線で見るかのねえちゃんは、随分久しぶりだった。僕らを隔てていた障害や溝が、溶けて消えていくような気がした。
「りーくんが『見ないで』って言うなら、見ないよ。『左側に座って』って言うなら、ずっと左側に座っててあげる。でも……でもね」
 かのねえちゃんは、丸っこい目をきゅっと細めて笑った。
「こんな話知ってる?生まれつきの痣は『見かけじゃなくて内面で判断しなさい』っていう前世からのメッセージなんだって」
「……知ってます」
「りーくんは、それがちゃんとできる子だよ。だから私も、こうやって、りーくんと一緒にいられる。見かけがどんなに変わっても、りーくんは離れていかないって知ってるから」
 僕は、そんなに偉い人間じゃない。感染症で亡くなった何百、何千という人々の悲劇ではなく、目の前の、たった一人の悲劇に涙を流すような人間だ。でも、そんな僕の心を、かのねえちゃんはいつも静かに灯してくれる。
 鼻の奥がつんとして、僕はジュースを思い切りあおった。視界を占領する青空と桜の花が、水彩画のように滲んだ。
 かのねえちゃんは、僕が涙をこらえている間、黙って、待っていてくれた。かのねえちゃんは、いつだって真っ暗な僕の心を柔らかく照らしてくれる。いつも僕の左側で、そっと温もりを分けてくれる。僕の、花灯りだ。
「……帰ろうか」
 かのねえちゃんがタイヤのロックを外している時、僕はその頭をそっと撫でてみた。
「ん?なに?」
「『大好き』って言われるのも、頭を撫でてもらうのも、死に際より生きているうちのほうがいいですね」
 かのねえちゃんの髪は、陽だまりに寝転ぶ小動物の毛皮のように温かかった。
 ゆっくりと歩き出す。風が悪戯をするように花びらを巻き上げ、くるくると渦を巻いた。
「春だね」
 かのねえちゃんが、そっとつぶやいた。
「痛くても、涙で塩辛くても、暗いニュースばかりでも、入学式がなくても、春は、春だね。誰にも見てもらえなくても、桜は咲いて、散ってく。世界は、死にかけてなんかないね」
 たおやかに枝を揺らす桜を眺めながら、僕もこんなふうになりたいと思った。ただそこに在るだけで美しく、誰かの心に寄り添えるような――かのねえちゃんみたいな人に。

 

受賞コメント

 佳作に選んでいただき、とても驚きました。言葉のひとつひとつを丁寧に紡いだ作品だったので、こうして選んでいただけて、とても嬉しいです。ありがとうございます。「全国高校生創作コンテスト 短編小説の部」は、去年チャレンジしようとして、あきらめたコンテストであり部門でした。今年こそは、作品を完成させて自信をもって応募しようと心に決め、夏休みを使って作品を完成させました。
 コロナ禍により、世界中で外出自粛が叫ばれた2020年の春を、私なりに小説の形にしたいと思ったのが、この作品を書くきっかけです。あの期間にしかなかった街の雰囲気、時間がゆっくり過ぎていく感覚を、小説で表現したいと考えました。また、そんな「当たり前」が唐突に消え去った時期を舞台にするに当たり、登場人物も、「当たり前」から少し離れたところにいる二人にしようと決めました。
 コロナ禍を舞台にすると決めたとき、真っ先に思ったことが、「暗い話になり過ぎないようにしよう」でした。物語のロケーションを桜並木にし、春ののどかな雰囲気や、登場人物たちの未来に希望が見えるラストになるよう、情景の描写に工夫を施しました。盛り込んだ要素が重かったので不安でしたが、形になって良かったです。苦労したのは、登場人物二人のやり取りです。コロナ禍の真ん中にいたとき、自分がニュースを見て感じていたことや、ふと考えたことの数々を彼らの会話の中に散りばめました。思い出すのが少し苦しいこともありましたが、自粛期間中の、普段の「当たり前」から外れた日常を書けたと思います。楽しかったことは、登場人物二人の関係性や、プロットを考える段階です。友人や恋人という範囲を少し越えた家族愛のような繋がりを、この登場人物の二人に感じていただけたら嬉しいです。
 改めて、実際に起こったコロナ禍の状況を舞台にして小説を書くことの難しさを感じました。しかし、悩みながら言葉を紡ぎ出す楽しさも、同じくらい感じられた創作作品だったと思います。これから、さらに自分の言葉を磨いていきたいです。創作活動の魅力は、自分の内側とじっくり向き合えるところだと思います。普段、何気なく生活しているだけでは見落としてしまう感情や行動を、ひとつずつ拾い上げることができ、さらにそれを言葉にして伝えることができるのは、創作の醍醐味だと感じています。
 創作をするときには、誰かに読んでもらうことを前提にした、読みやすい文章を心がけています。自分の気持ちばかりが先走らないように、書いた文章を客観的に見ながら書くのがポイントだと思います。また、私は、将来文章を書くことを仕事にしたいと思っているので、思いついたことや疑問に思ったことはメモをとるようにしています。そして、たとえ時間がかかったとしても、自分の気持ちを言葉にすることを大切にしています。
 創作は、自分自身と向き合うことだと思います。私は、文章を書いていると、自分自身ですら知らなかった自分の一面に出会うことがあります。自分が書いた文章を読み返していると、過去の自分が書いた言葉にはっとさせられることもあります。もし、心の中に、言葉で表すことが難しい想いや疑問が生まれたら、放っておかずにそのひとつを突き詰めてみてください。その先にきっと、新たな自分との出会いが待っているはずです。 

【目次(TOP)】【最優秀賞】【優秀賞】【佳作】

 

佳 作 「一皮」 田代 蒼太(埼玉県立浦和高等学校3年)

私はいつも、何かを満たせるような幻想を抱いてここを訪れる。でも、この地方には一つの総合病院が建つばかりで、後は何もない。それを知っていながら、高校帰りに雪道を五十分も歩き、お見舞い品のリンゴまで買って、今日も結局彼の元へ来た。私はなぜこんなことをするのだろう。思えば、彼と一緒に居るとこういうことが多かった。私の心の中にある不合理な感情が私にリンゴを買わせて、今、そのリンゴを剥かせている。一連の自分の行動に当惑しながら、削いだ皮を一本に長く繋げていく。彼にこのリンゴを売り付けて、自分の割に合わない行動の清算をして貰いたいのかもしれない。そういう商法を使って、私の不可解な感情に理屈をつけて欲しいのかもしれない。それとも、病室で彼のためにリンゴを剥く、という健気な献身に酔っているだけだろうか。考えがまとまらず、リンゴも思うように剥けない。ふと、家庭科で習ったリンゴアートを思い出す。彼はきっと、アートにしたって食べてしまえば同じさ、と理論家を気取るだろうけど。
 「リンゴ、どんな形が良いかな?」話しかけるが返事がない。そのとき、彼が大事な話を切り出す前に見せる、ある独特の雰囲気を嗅いだ。
 「君は反対してたけど、機械に手術してもらうことにする。」シャクシャクと剥く手元が止まる。ナイフを握る左手の力が抜けていくのを感じた。リンゴの赤に食い込む刃は、彼の手術を背景として、あらぬ連想を呼び起こしながら私の心を滅多刺しにする。
 「僕は人より機械を選ぶよ。機械による手術は前例が無いみたいだけど、人間より正確だろうし。」他人のカルテを読み上げるような無関心をもって、彼は続ける。「それに、機械には感情がないからね。緊張なんかせず、冷静に手術室に来てくれるだろうよ」
 「失敗したら冷淡に出ていくでしょうね!」言ってしまって、すぐ後悔する。いや、言えば後悔すると分かっていても、それでも言ってしまう。私は機械じゃないんだから。
 「佐藤くんは、嫌じゃないの?心の無いメスが自分の体に入るのよ?そこには信頼関係なんかない。それで恐ろしくないんだったら、おかしいよ…。」
 彼は、あの独特な目の細め方をして、じっとこっちを見る。彼と一緒に骨董屋に入ったあの日、私ははじめてこの目を見た。懐中時計を手で巻いて秒針を合わせる時、理科の実験でビーカーの目盛りを読み取る時、そして、私との意見が合わない時、いつもこの目をしてみせた。まるで、理論を私に照らし合わせるような瞳。そして、私を値踏みするような瞳。「信頼なんか、要らないよ。そういうのはかえって面倒だ。」
 「でも、もし手術が失敗したら私は誰を責めれば良いの?このやり場のない気持ちは?機械はなにも言ってくれないんでしょ!」感情的になり、涙ぐんだ瞳を向ける。私の瞳と彼の瞳。感情家と理論家。私たちは、波長が全く違うから、それがうなりとなって共鳴する。
 「理論的じゃないね。人の失敗も機械も失敗も、結果は同じなんだ。そこに感情を持ち込む必要はない。そもそも僕の体のことは、僕が決めるのが筋だ。君は気に病まなくて良いんだよ。」
 違う、理論じゃないんだよ。君が良くても、良しと思えない人がいるんだよ。君のことを、君より見つめる人がいるんだよ。理論じゃ割り切れない愛情を、君に向ける人が…。
 
 ――リンゴを剥く。白を基調とする病室には不相応な、生きた赤。刃を入れて添え手を回転させると、何かに手繰られるように皮が剥け、そこに病的に白い中身が露出する。佐藤くんにもメスが入るんだろうか。こんな風に、私にはどうしようなく運命に引き寄せられるように死ぬんじゃないか。佐藤くんが白くなってしまったのを見るとき、私にどうし
ようもない感情が起こるであろうことを、知ってるんだろうか。知ろうとしてくれているんだろうか。
 「デコボコだね」彼が言った。
 「剥いてもらってるのに文句言うな」
 リンゴはもう半分まで剥けた。皮を細く繋げることに夢中で、表面のデコボコには気付かなかった。このデコボコを見て、彼がどう思うのかを知っている。美しくないと思う彼、機械で剥けば良かったのにと思う彼を知っている。私とは全然違う。私には、このデコボコしたリンゴが愛おしい。機械には絶対彫れない、秩序のない凹凸。私の彼への思いが成した起伏。佐藤くん。きっと、理論じゃ語れないものが、私を私たらしめるんだよ。寒いと分かっていて五十分歩くこと、手を使ってリンゴを剥くこと、愛を伝えられないこと。そうやって遠回りして出来た足跡が、デコボコとして私らしさになる…。
 なんとなく、今日の私の行動に、自分で理屈をつけられた気がした。彼の形に合わせるんじゃなくて、彼と自分の異なる形を、いつかそのままの形で埋め合えるような気がする。リンゴも、もうすっかり剥けてしまった。
 「うん、甘いよ。旬なんだね」彼が、デコボコのリンゴにそのままかぶり付いた。
 「ちょっと、アートにするつもりだったんだけど」
 「胃に入れば同じじゃないか。君も食べなよ」彼は顔を赤くして、食べかけのリンゴを差し出す。彼の、彼だけが持つ歯形の横に、私の歯形をつける。男と女の歯形では明確に違っていた。私たちは、心も体も違う。ゆえに、彼と私のデコボコは、いつも簡単には嵌まってくれない。それはもどかしいけれど、その得難さが愛おしい。私たちは、互いを鋳型にすることなく、ただ互いを噛み合わせようと寄り添ってきた。でも私たちの歯車は全然噛み合ってくれないから、デコボコが擦れあって、次第に熱を出し、その熱に溶かされるように、私は彼に惹かれてしまったんだろう。彼を見つめながら、またリンゴを齧った。私たちは、今だけは同じ瞳をしている。
 ガッチャン、と歯でない何かの噛み合う音を聞いた。

【目次(TOP)】【最優秀賞】【優秀賞】【佳作】

 

佳 作 「夢想画家」 近藤 聖斗(愛知・桜丘高等学校3年)

五年ぶりの校舎は全体的に狭く感じる。
 以前は輝いて見えた講堂も、今ではどこか薄暗い。
「人の数ほど夢がある。」
 壇上に立つ私の右側で先生が声を張る。普段の柔和な表情と打って変わって、凛々しい顔で人前に立つ姿は、自然と私に尊敬の念を抱かせる。髪を短くそろえ、パンツスタイルのスーツを着こなす姿は、同じ二十代とは思えない。
「夢を叶えたい人はいくらでもいる。一方で、儚く消える夢もまた多い。」
 ここには、百人近い中学生が座っている。私は、ただ先生の後ろで耳を傾ける。
「しかし、諦めることはしてはいけない。」
 先生の声に一段力が籠る。
「人の夢が多様であるように、その叶え方も多様。」
 脳裏に先生の作品が浮かぶ。それは、どれも明るく、見た者に希望を与えてくれるとよく言われている。その絵に憧れ、模倣を試みているが、上手くいった例はない。
 いったい何が足りていないのか。私と先生との違いを探るために、教えを受けてから一年半。一向に近付く気配はない。私と先生、二つの絵を比べたとき、誰の目にも違いがはっきりと映るに違いない。
 観客席から拍手が上がる。先生はマイクを置くと、ペットボトルの水を含んだ。一時間立ち続けていたというのに、二口程飲むだけで再びマイクを手に取った。
 袖に待機していた男性教師が前に出て質疑応答の時間を設け、挙手した生徒の一人へマイクを渡す。その間にメモ帳とペンを取り出し、先生の横に立つ。生徒の質問の内容を書き取った後、千切った紙を先生に渡す。それを一瞥してから、マイクを上げた。
 先生の助手を始めてから長い時間を過ごしたが、分からないことも、まだ多い。
 
 校長室に続く扉の左側には、一枚の絵が飾られている。淡い空色の背景に、陸上選手のユニフォームを着た少年がゴールを決めた瞬間のようで、両手を大きく広げ、達成感に満ちた笑顔を浮かべている。
 この絵を初めて目にしたのは七年前、中学一年生の時だ。私はここで彼女の絵と名前を知った。これまで見たどんな画集の絵からもこれほどの衝撃を受けたことがない。中学三年間の目標となったこの絵は、今でも姿も場所も変えず母校の壁に飾られている。
 懐かしさを覚えつつも、当時のような純粋さのみで絵を見ることができない。色の流れ一つ一つにまで、先生の意志を読み取ろうとしてしまう。そんな自分に嫌気がさして、気を紛らわせるために辺りを見渡す。扉の向こうでは、先生と校長、教頭が談話しているだろう。今日は先生ともう一人、男性が呼ばれていたが、まとめて対応するといった訳では
ないようだ。
 初め、私も部屋に入るつもりだったが、少し休むように言われてしまった。無理についていこうとしたが、優しく微笑まれてしまうと私にはどうしようもない。
 絵を眺めているのは、暇つぶしと実益を兼ねていた。しかし、先生の癖や趣向が浮かぶばかりで、思うような成果を得られない。背景、顔、腕、指の一本一本、皺一つにまで目を凝らす。もしや、微細に入るような思考が悪さをしているのではと、一度目を閉じ一枚の絵を俯瞰してみる。
 綺麗な絵。そう思う。長く見詰めていると自信を無くしてしまいそうなほどだ。
 私に描けるだろうか。
「綺麗な絵だろ。」
 驚き声がした方を向くと、来客用玄関から歩いてくる人がいた。大柄な男性だ。明らかに運動をしているといった風貌で、スーツの上からでもうっすらと筋肉の形が分かる。
「いや、すまない。熱心にその絵を見ているから、あなたも彼女のファンなのかと。」
 そう言いながら、私の右に並ぶと絵を眺め始めた。
「いえ、佐藤さんもこの絵、お好きなんですね。」
 返事をしながら、三十分ほど前に聞いたものより小さな声だなと思った。
 彼は、先生と同じく特別授業の講師として招かれているようで、彼の授業は前半に行われた。陸上短距離選手として著名なようで、卒業生という縁で、あの場で話をしていたようだった。そして、どうやら二人は同学年で、面識もあると言っていた。
「名前、知られてたか。」
「……さっき講堂にいたので。」
「そっか。」
 お互いに一度、しっかり名乗りあう。
「竹下さんは、彼女とどんな関係?」
「一応弟子です。」
「なるほどね。…ということは、絵を見ていたのは勉強のためかい?」
「えっと、一応そうです。」
「やっぱり。」
 佐藤さんは初対面だが、意外と話しやすくて、接しやすかった。
「でも、一番の理由は違います。」
「へえ。」
「この絵は私と先生を繋いだきっかけなので、先生のどの絵よりも思い出深いです。」
 相槌は聞こえない。構わず話を続ける。
「この絵は数年ぶりに見ました。もしかして、今なら何か掴めるかもしれない。そう思ったんですけど……。一年半も傍にいても、近付いたような気がしません。」
 ふと、横を見ると、佐藤さんはじっと黙って絵を見ていた。しまった。自分勝手に話し過ぎたかも。
「すみません。初対面でこんな話してしまって。この手の話題を出せる相手がいなかったもので。」
 恥ずかしさからか、つい言い訳が口をつく。
「竹下さん。」
「なんですか?」
「この絵、何が描いてあると思う?」
 彼は振り向かない。
「何が、ですか。」
 絵に向き直り、じっくりと眺めていると、何か既視感を抱く。どこかで見たような顔をしている。誰かに似ているような。頭の中で何かが繋がった気がして右を見上げる。
「もしかして、佐藤さんって、この絵のモデルですか。」
「そうですよ。」
 絵のモデルに会う機会は今までなかった。何度か先生にお願いしたことがあるが、色よい返事を貰うことはできなかった。それが、目の前にいる。頭が熱い。何を聞こうか。質問は普段から用意しているはずが、白紙のまま、思考が宙に浮く。それがひどくもどかしい。少し落ち着けようと息を吸い込んだところで、彼の声が降る。
「でも、重要なのはそこじゃない。」
「……。」
「これは僕の夢だよ。」
 たぶんその時の私の顔は厳しい顔だったに違いない。一方で、佐藤さんの顔は綻んだように見えた。
「中学の時は選手じゃなかったんですか?」
「いや、選手だったよ。」
「………。」
「彼の顔、見てごらん。明るい顔をしているだろう。何にも縛られない自由な表情だ。」
「………。」
 そう言われると、その表情に新たな面が現れた気がする。それに、『自由』というフィルターを通すことで様々な部分が繋がってくる。ゴールの瞬間も、背景色も、人物のポーズも、全てその言葉を連想させる。
 視界の端に、薬指に嵌る二本の指輪が映る。彼と私との間には、親しさを感じさせない僅かな距離がある。
「夢は叶ったんですか?」
「叶わないさ。」
 そう言う彼の顔は少し悲しげで、
「叶わない夢だから絵になってるんだ。」
と、言う彼の顔は少し嬉しげだった。
 静まった廊下に複数の足音が響く。扉が開き、先生が現れる。先生は扉を閉めると、私たちと向かい合い、動きを止めた。彼女の瞳が一瞬揺れたように見えた。佐藤さんも先生の方を向いているが、表情を伺うことはできない。妙な空気が流れるなか、先生の目が佐藤さんの顔と、左手のあたりを往復した。その時の先生の顔は、悲しい表情に見えた。彼
らはお互いに頭を下げると、それっきりだった。佐藤さんが扉の奥に消えた後、先生は、帰るよと私に声を掛けて玄関へと歩く。その後を追いながら、先ほどの妙なやり取りの意味を探っていた。彼らの間に何かがあって、その関係の結果があの絵なのではないだろうか。だとしたら、そこに先生の絵の秘密があるのでは。佐藤さんの嬉しげな顔も浮かぶ。
 気付けば、先生の袖を引っ張っていた。
「どうした?」
 先生と肩越しに目が合う。何故か、手に持つペンは宙で止まった。固まったままでいる私を怪しんでか、先生は足を止めた。慌てて、『また絵、見せてください』と紙に書き、千切って先生に渡した。先生は受け取り、そこに目を落とす。
「うん、いいよ。」
 それだけ言うと、再び帰路へと進む。
 私が描きたいものは今、決まった。まずは先生の夢を知ろう。彼女が伝えようとするものを、私も伝えたい。
 部活をしているだろう生徒の掛け声があたりに響くなか、鮮やかな茜色の空が広がっていた。

 

受賞コメント

 このような賞をいただき、とても光栄に思っています。受賞という経験自体が少ないので、最初は戸惑いが大きかったです。しかし、徐々に未知の喜びが体を巡り、受賞したんだと理解しました。 以前、別の大学のコンテストに応募したことがあり、もしかしたら志望大学でも小説を送る場があるのではと考えたことがきっかけです。調べた結果、見つけたので、応募したい旨を先生に伝え、送った次第です。
 実は、今回応募させていただいた作品は元々構想にあった話を下地にしています。登場人物の一人を中心に据え、その人の視点で話を進めました。時系列でいえば、未来の出来事で、自分の中では外伝的作品として位置付けられています。ですので、込めた思いなども似たようなものですが、夢の実現をテーマにしています。
 小説の執筆を進めるなかで、原稿用紙十枚以内という規定に納めることが一番の課題でした。気に入った内容でも蛇足ならば切り捨てる。辛い作業ではあったのですが、推敲を重ね、作品として仕上がっていく過程は楽しいものでした。
 コンテストへの応募を決め、アイデアを出して文章を綴り、何度も見直して、応募する。今までの人生で、主体的に動いたことはほとんどなく、そんな自分を恥じていました。勇気を出して、佳作という結果を与えられた事実は間違いなく私の自信になっています。自ら行動することの素晴らしさを学びました。
 頭に描いた世界が形となって現実にあらわれる。それは小説に限らず、あらゆる創作活動の魅力の一つです。しかし、私は想像が現実となる狭間で、予想外の何かが生まれるのも魅力の一つだと思います。 メモを取るときは必ず手書きにしています。忘れにくいという理由もありますが、手書きの感触がメモを取ってる感を与えてくれるのが好きなので、普段から紙と鉛筆を持ち歩くようにしています。
 初めは、小説を書いている自分が無性に恥ずかしかった。子供じみたままごとをしているのように感じて、誰かに読んでもらうことなんて想像もできなかった。しかし、何事も慣れというか、真剣に向き合えば恥ずかしいなんてことは感じなくなります。あとは、本気で取り組んでいると、周囲にアピールできれば、笑われることはないでしょう。自信はなくても大丈夫。真剣に向き合うことが何よりも大切です。

【目次(TOP)】【最優秀賞】【優秀賞】【佳作】

  ■審査員講評も参考にしよう!ここからチェック!