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佳作
「羽衣娘」 山城 昌怜(沖縄県立那覇高等学校3年)
「電ウツボ」長谷井 佑香(横浜市立横浜サイエンスフロンティア高等学校2年)
「伝染する青」 池田 愛生子(千葉県・二松学舎大学附属柏高等学校3年)
「ドアの向こう」 芹田 敦史(福岡県立北筑高等学校2年)
「夏の日の夢」 東 那侑多(新潟・長岡工業高等専門学校3年)

 

佳作 「羽衣娘」 山城 昌怜(沖縄県立那覇高等学校3年)

 ある所に、嘉兵衛という樵がいた。ある冬のことだった。冬は山に立ち入らないことになっていたが、お上の命令で材木が必要になり、樵達はやむなく山へ入っていった。山中で嘉兵衛は、枯れ枝に美しく輝く布がかかっているのを見つけた。すぐ近くの池で、女達が水浴びをしている。皆がこの世の者とは思えぬ程に美しく、凍えるような寒さの中で楽しそうに笑いながら水をかけあっている。天女だ。嘉兵衛は祖父の話を思い出した。天の羽衣を手に入れ、天女を妻にした男の話である。嘉兵衛はこっそり、目の前の羽衣を懐に隠した。嘉兵衛に気付いた天女達は、慌てて自分の羽衣を被り、白鳥の姿となって天へ上っていく。その中で一人の天女だけが天に上がれず、嘉兵衛は天女を妻にしてしまった。
 天女は名をミザリといった。二人の間にはやがて娘が生まれ、ゆきと名付けられた。嘉兵衛は家の戸棚の奥にある木箱に羽衣を隠していたが、ある夜、酒に酔ってうっかりその場所を漏らしてしまった。気付いたときには全てが遅く、妻は羽衣を取り戻し、白鳥の姿となって天へ帰ってしまった。嘉兵衛は己の軽薄さを呪った。もう一度妻に会えることを願い、あの山の池へ来る日も来る日も足を運んだが、望みは叶わず、ついには足を痛めて山に登ることすらできなくなってしまった。
 十数年が経ち、ゆきは美しい娘に育った。父は足を痛めて以来樵をやめ、今は町で草鞋を編んだりしながら細々と暮らしている。家の近くに宿屋があり、ゆきがそこで稼いだ金でどうにか食い繋いでいた。まだ父の足が元気に動いていた頃、ゆきはしきりに母の事を聞きたがった。母はどんな人だったかと聞くと、父はとても美しい人だったという。どこから来たのかと聞くと、分からないという。どこにいったのかと聞けば、それも分からないという。父に何か秘密があることは幼心にも勘づいていたが、ゆきは何も言わなかった。というのも母の事を語る度、父はひどく怯えた様子で、ゆきよ、お前はどこにもいかんでくれよ、とすがり付くように言うのだ。ゆきはよく分からないながらも頷いて、よく知らぬ母の事を思いながら床につくのであった。
 ある夏のこと、ゆきは宿の女将の使いで、山向こうの町へ行くことになった。山中の道を通るとき、どこかざわざわと、胸の奥を擽られるような妙な気分に襲われた。初めて通る道に不安を感じているのだと自分なりに解釈し、ゆきは足を速めた。町に出る頃には胸騒ぎはすっかり収まっていたので、ゆきはほっと息をついた。無事に用事を済ませ、その日はその町で夜を過ごし、翌日の朝に女将の元へ帰ろうとした。山道での胸騒ぎは昨日より更に大きくなっていた。少し休憩しようと苔むした岩に腰かけたとき、ゆきは竹筒の水がもうほとんどないのに気付いた。町を出る前に入れておくのを忘れていた。水がなければ山は抜けられない。困って辺りを見回すと、どこかからさらさらと水音が聞こえる。道を少し逸れたところに、小川が流れていた。水は澄み、手を入れるとひんやりして、指先から熱が奪われていく。少し掬って飲んでも、特におかしな味はしない。ゆきはこれ幸いと水の中に竹筒を沈めた。筒から泡が出尽くすのを待ちながら、ゆきはふと川下へ目を向けた。草が茂り、水が木漏れ日を受けて微かに光る。その瞬間心臓がどくんと跳ね、自然と息が弾みだした。川の向こうに何かがある。直感が耳元で囁き、川から目が離せなくなる。ゆきの後ろから、目には見えない大きなものが山を駆け降りていくような感覚がした。冷たい水に指の間を擽られていなければ、屈んだまま坂をあっという間に転げ落ちてしまいそうだった。竹筒に栓をして立ち上がり、ゆきはふらふらと川下へ歩き出した。胸騒ぎはどんどんと大きくなり、ゆきは自らも川に浮く木の葉のように川下へ突き進んでいった。
 川の先には大きな池があった。鬱蒼とした木々が檻のように立ち塞がるなか、池の上だけぽっかり穴が開いたかのように空が顔を覗かせる。薄い雲が空を覆い、その間から漏れる日の光が池に葉の影を落とす。臍の下の辺りが氷水に当てられたかのようにこそばゆく、吐く息が生温かくゆきの唇を撫でた。胸騒ぎの正体はこの空であると、ゆきの心は告げていた。わっと大声をあげたいような衝動に駆られ、けれども喉の痛みが欲しいわけではなく、どうすればよいか分からず、ゆきはただ荷物を放り出し、青臭い土の上に倒れ込んだ。
 どれほどそうしていただろうか。太陽が既に池の真上の空にあるのに気付き、ゆきは驚いて飛び起きた。すぐに立ち上がって背中の土を払い、一度ぐるりと辺りを見回して、後ろ髪引かれる思いで川を上っていった。 林の木の隙間から見る空も、町に出て見る大空も、あの池の上の空とは違うものに思えた。高揚と恍惚とが、確かにあの空には広がっていた。あの池と空とが特別な道を通して繋がっているような気がする。自分の前世は鳥であるのかもしれない。自然とそう思われるほど、あの空はゆきの心を掴んで離さない。
 ああ、私は誰なのだろうか! 私は嘉兵衛の娘、ゆきだ。だがそれだけでは片付けられない。何かもっと大切な物をあの空に貰ったような気がする。私はどこから来たのだろうか! 私はこの町で生まれ育った。けれども私の故郷というのは、この町でなく、あの空なのだ。根拠もないが、そんな気がする。鮭が川へと帰るときも、きっとこのような気分であるのに違いない。私は誰なのだろうか!
 家へ帰ってすぐ、ゆきは父に今日の事を報告した。言葉でうまく表すことができず、ただ自分の思いを口に出したい一心で、ほとんど捲し立てるように話した。五回目の息をした頃に、ゆきはようやく目の前にいる父の表情に気付いた。父の目が、親に殴られて怯える子供のように、恐怖に染まっていた。先程までの高揚と恍惚が、一挙に色を失っていく。父がどんな言葉を絞り出したか、また自分がそれにどう答えたか、ゆきは覚えていない。いつの間にか話が終わり、いつの間にか飯を食べ終え、いつの間にか寝床についていた。
 翌朝、父は深刻な顔をしてゆきを呼び寄せ、全てを打ち明けた。母が天女であったこと、あの池で出会い、羽衣を隠して結婚したこと、ゆきが幼い頃、羽衣を見つけて天に帰ってしまったこと。話し終えると、父は不安を圧し殺したような表情で、小さく溜息をついた。自分が天女の娘であるなど俄には信じがたい話であったが、ゆきはこれまでの全てに合点がいくような心地だった。自分はあの空へ帰らねばならない。そのような考えがゆきの心にはっきりと浮かんできた。だが同時に僅かに残る冷静さが、目の前にいる父の表情を伺った。父は、母に続いてゆきまでもが天に上っていってしまうのを恐れているのだ。以来二人は、母の話をしなくなった。
 所変わって、ここは雲の上なる天上の都。そこでは華やかな酒宴が催されていた。どこぞの男神と女神が結ばれるというので、普段は気ままに暮らす天女達も、今宵ばかりはと酒と飯とを運んで飛び回り、祝いの席に訪れた東西の神々をもてなした。その中である天女だけが、席の中心にいる花嫁と花婿とをぼんやりと見つめていた。天女の名はミザリという。ミザリは仲睦まじい二人を見て、地上に残してきたかつての夫のことを思い出していた。羽衣を隠されやむなく結ばれたとはいえ、嘉兵衛は確かに自分の夫であった。幼かった娘の事も気がかりだ。天界では歳を取らぬので詳しくは分からないが、あれから十年は経っただろうか。天界での豊かで退屈な日々の中で、二人の存在を思い出さぬ日などなかった。願わくばもう一度夫とあの美しい日々を過ごしたい。だが戻ってきた以上、再び地上で過ごすことは容易には叶わない。そうこうしている内に、夫に焦がれる心はどんどん大きくなっていく。酒宴のご馳走も酒も、ミザリの心を満たすことはなかった。
 ある冬のこと、ミザリは水浴びに行く仲間に混ざって、かつての池へと下り立った。羽衣を外し、以前と同じ木の同じ枝に、以前より少しばかり目立つようにかけ、思いを胸に池へと入っていった。仲間が水浴びを楽しむ中、ミザリはじっと自分の羽衣を見つめていた。風に揺れる羽衣は光を受けて五色に光り、誰かの手に取られるのを待ち望むように輝いている。だが待てど暮らせど、池を訪れる者は誰もいない。仲間が水浴びを終え、羽衣を身につけて一斉に飛び去った。ミザリは溜息をつき、とうとう自分の羽衣を手に取った。
 次の水浴びも、そのまた次も、ミザリは夫を待ち続けたが、全て待ちぼうけに終わった。冬が終わり、白鳥に扮した天女の水浴びは見られなくなった。それでもミザリは諦めきれず、一人であの池へと降り立った。春が終わり夏が過ぎても、季節外れの白鳥はたった一人で水浴びを続けた。それでもまだ、羽衣を拾う者はいない。寂しさに打ち拉がれ、ミザリは一人池の岸に座り込んだ。
 ゆきは池での出来事を思い、ぼんやりすることが多くなった。もう一度池へ行きたい。だが行けば二度と帰れないような気がする。足の悪い父を一人にはできない。一ヶ月二ヶ月と時が過ぎても、思いは冷めるどころかかえって大きくなっていく。仕事で失敗が増え、日に何度も女将に活を入れられた。ある日、とうとう辛抱堪らなくなり、気付けば無我夢中で池へと駆け出していた。
 息の上がった町娘と、涙で頬を濡らした天女が、顔を合わせて息を飲んだ。
 家の戸を叩く者があり、嘉兵衛は足を引き摺りながら戸を開けた。そこに立っていた懐かしい顔の女を見て、嘉兵衛は目を見開いた。
 池の畔に、美しい娘が立っていた。空は薄い雲がたなびき、夕日に照り輝いている。母の羽衣を身に纏うと、ゆきの体は美しい白鳥に変わった。白鳥は辺りを見渡すと、大きな鳴き声を一つあげ、空へと舞い上がった。

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佳 作 「電ウツボ」 長谷井 佑香(横浜市立横浜サイエンスフロンティア高等学校2年)

俺は大きく伸びをした。最近肩の凝りが酷い。絶えずめまいがするし、オマケに手足が震える。外ではセミがジージー鳴き、日光が地面と垂直に刺さっている。空調の効きが悪く、このどうしようもない暑さも神経をいらだたせる。オフィス内に響くのはキーボードを叩く雨のような音と、誰かのため息だけ。目の前に山積されている書類を見ていたら、それもまあ当然だよなと思う。大気中にアークロイヤルの甘ったるい匂いが混じっていて、俺は顔をしかめた。まったく、配慮がねえな…。
 震える手で栄養補給ゼリーとショートピースの箱を掴み、屋上に出る。みんなに白い目で見られた気がするが、もうそんなこと気にしていられない。鬱になるか、神経がおかしくなるか。明日は我が身だ。俺だって遅延の原因になって舌打ちされるのは避けたい。人身事故での遅延はかなり長い。
 屋上に出ても大して環境は良くならなかった。蒸し暑かったのが、直射日光による暑さに変わったくらいだ。ちょうど鶴見線が目の前を横切る。鶴見線は今年でめでたく百周年を迎えた。昼時だから、次来るのは二十分後くらいだろう。今、車内に人は全然いないが、これでも朝は一丁前に混む。俺はまた大きく伸びをする。関節がギシギシ鳴るのが分かる。屋外とはいえ、アークロイヤルがなくとも既に工場の煙でいっぱいだった。この鶴見の街は全体が煙の中にある。逃げ場がないのだ。海の塩の匂いと重油が混じった臭いが鼻をつく。タバコに火をつけ、たっぷり深呼吸する。いいだろう、この空気もろとも、肺の奥の奥まで吸い込んでやる!スーハースーハー、おおげさに息をしていると、いつの間にか同僚の浅野が隣にやって来ていた。
「タバコ休憩か?」気さくに話しかけられる。
「いや、昼メシだ。」俺は左手のゼリーを振って答えた。
「おいおい、それかよ。まあ一緒させてもらおう。僕としてはね、栄養補給ゼリーは許されざるべき存在なんだよ。食事っていう娯楽がなくなっちゃうからね。」やや大きめの腹を叩いて、浅野はおにぎりを頬張り始める。浅野はよく喋る。無口な俺とはかえって話しやすいのか、同僚の中では仲がいい。「大川ももっとニンゲンらしい食事をとった方がいいぜ。」
「これは便利だ。一本食べさえすれば一日それでいいんだから。」
「そいつはちょっとおかしいよ。」浅野は長々と語り始めた。「昔の昔からニンゲンは、いや、生物は、食事を得るために進化したり知恵をつけたりしてきたんだ。それが今となってはニンゲンは食事をいかにしないかを追求している。必死で食物連鎖の頂点に登りつめたのにな。やむを得ず食事する。そんな感じさ。」一呼吸おく。「それって傲慢じゃないか?」
「ニンゲンって、ずいぶん主語が広いな。」
俺の口調はやや反抗的だ。ゼリーは冷たく、美味しい。これで必要な栄養をバランス良く取れるのだからいいではないか。使える技術は使うべきだろう。だが、めんどくさい論争になるのが嫌で、それ以上何も言わなかった。浅野は特に気にする様子もなく相変わらずおにぎりを食べている。それを見ていたらなんだかどうでもいいような気がしてきた。俺たち二人はいつもそんな感じだった。フェンスに両肘を置き、汗を流しながら、鶴見の景色を見渡す。暑い。だが、それでもオフィス内の腐ったような空気と比べると何倍も快適であった。
「匂いがきついな。」
「海か?酷いよな。知ってるか?実は漁師の目でわかるくらい顕著に水面が上がってるらしいぜ。」
「それはどこからの情報だ?」
「テレビ。」
「だろうな。実際は、」
「もちろん、そんな訳ない。そんなことになっていたら今頃オランダは海の中だろ。誇張表現だな。」
浅野が鶴見川を横目に見ながら言う。浅野は案外冷静な思考の持ち主だ。時は閉鎖的にゆっくり流れる。なんとなく、夏を実感する。
「生き物が死ぬ前、海の匂いがするって言う人が結構いるんだけど、僕としてはそれは単に海に死骸が多いからなんじゃないかと思うんだ。」
「確かにな。」
日光がアスファルトを焼く。誰かが言う、「夏の匂い」もアスファルトが焼ける匂いなんじゃないかと連想する。
「もしいま津波が起きたら、俺たちもその中に含まれるな。」
「だな。」
「むしろその方がいいかもしれない。」
これは常々思っていることだ。浅野は何も言い返さない。同意ということだろうか。
「この辺りが海になったら、工場は熱水噴出孔だ。」
なるほど。想像してみる。一寸先も見えないくらい暗く、冷たくなった鶴見の街を。時折、工場が噴火し、ボコボコと泡が立つのを。
 現在の鶴見とどこが違うだろうか。食事である他の生物の死骸が降ってくるのを待っている深海の世界と、今の鶴見と。鶴見の街は今、汚れ役のようなものを買っている。五年前、画期的に発電効率が高い太陽光発電機が開発された。石油を扱った産業をしている鶴見は「頭の良い人たち」から蔑視された。地球温暖化を進行させたいのか!一部の国民はそう騒いだ。もちろん、発電機だけが再生可能エネルギーを用いてるのだから、石油工業は続いている。続かなければ国民は生活できない。たいていの人はそんなことは分かっていたが、ここでタイミングの悪いことが起こった。鶴見で死者が激増したのだ。人々は騒いだ。有る事無い事を捲し立てた。有害物質を排出しているだとか、鶴見に行くと汚染されるとか。かくして、鶴見は嫌悪され、避けられるようになった。
 目立たないように頼まれた産業をこなす。鶴見の街が煙で溢れているのは、他が世間体を気にしてやめてしまった石油工業を一身に背負っているからだ。労働者は栄養補給ゼリーから必要な栄養分を化学物質として取り込み、外部との交流を避けた。鶴見の街は、さながら深海の世界だ。
「鶴見で人が死ぬのはさ、有害物質とかではない。これは確かだ。今までだって同じ産業をしていたんだから。」
同じことを考えていたのか、浅野が慎重に言う。
「僕は、ダニが原因なんじゃないかと思うな。工場の煙で日光が当たりにくいんじゃないか?」
違うな、と俺は思う。第一、時期がおかしい。死者が増えたのはちょうど世間から、鶴見が差別されてきた頃だ。同時に加速していた印象がある。大気やダニが原因なら、おそらくもっと早く死者が出るだろう。もっと、根本的で、忘れられがちな部分…。
「でも今、俺らは暑い。」
そうだな、といって二人で笑う。緊張感が溶けた。
 タバコが切れ、俺はもう一本に火をつけ始めた。そろそろ仕事に戻らないといけないのだが、どうしても嫌だった。今だけはダメだ。単に、我慢が限界を迎えただけかも知れない。だがそんな気がした。
「なあ、電ウツボって知ってるか?」
「知らねえな。」
「電ウツボって言うのはな…まあとりあえずいいから聞いてくれないか?」
浅野はどこか遠くを見ながら語り始めた。
「先々週、俺と白石は一緒に出掛けたんだ。プライベートで。ほら、俺も白石も電車が好きだろ?だから、鶴見線を旅することにしたんだ。クモハの三文字でも見れたらと思って。」
浅野はここじゃないどこかを見るような目付きだ。暑さからか、俺は頭がクラクラしてきた。
「そしたら急に白石が、電車がウツボに見えるって騒ぎ始めたんだよ。俺はまず笑った。とうとう白石まで頭がおかしくなったのかってな。」
ぼんやりしながら、俺はこの話について考える。確かに電車のなんとも言えぬ、ゴツゴツしさと滑らかさを同時にもったような動きはウツボと似たものを感じなくもないな。ただ、何の話をしているんだ。浅野は…。
「ところがどっこい、僕にも電車がウツボに見えたんだ。笑ってもいいぜ。でも、本当だったんだよ。」
俺は何故か鳥肌が立った。恐怖を感じた。純粋で単純な恐怖を。浅野の話す言葉にはグロテスクさがあった。浅野の呼吸など、動作の一つ一つが浮き上がって見え、痛いくらいにその存在を感じた。呼吸をして膨らむ胸によって、空気の分子が押しのけられているのが分かった。気味が悪い。俺と浅野とは、共鳴する音叉のようであった。
「銀の車体は、白光りする鱗に変わったんだ。僕は確かに、あの怪物のような顔を見た。」
俺は静かに、浅野が生み出す空気の振動を、言葉を、聞いているほかなかった。
「僕は圧倒されてしばらく呆然としていたんだ。そしたらさ、白石のヤツ、いねえんだよ。ブツブツなんか言ってたと思ったらいつのまにか。ウツボに食われちまったのかな?」
浅野は気が狂っている。話はおかしな点ばかりだ。俺らは仕事で毎日鶴見線を使っているから、旅に出るという言い方はおかしいし、そもそも白石はひと月前に死んでいる。白石は轢かれて死んだ。人身事故で電車は長いこと止まった。
「なあ、大川にはそう見えないか?電車がウツボに見えないか?」
俺は何も言えなかった。口を開くことができなかった。きっと、浅野は白石の死を間近で見て、そして受け入れられていないんだろう。おかしくなってしまったのだ。いや、おかしくなっていないのかも知れない。その時俺は分かってしまった。鶴見の突然の死亡者数の増大、デスクの上の書類とタバコの箱の山、栄養補給ゼリー、工場の煙。その全てが。俺は溜まった唾を飲み込んだ。
「浅野、お前には悪いんだけどさ…」
その時、目の前の線路を鶴見線が、いや、巨大なウツボが通過し始めた。丁寧に光を反射し、荒く滑らかにうねる。それは紛れもなくウツボであった。俺の背中は恐怖で冷たく濡れた。どうしようもないその恐怖を振り切って深呼吸し、大きく瞬きをした。鶴見線が走っていた。ウツボの面影はもうない。完全に通過し切ってしまってから、俺は呟くように言った。
「俺はどこまで……」
浅野のいる方を見た。浅野はいなかった。そういえば先々週…。俺の手からタバコが落ちた。

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佳 作 「伝染する青」 池田 愛生子(千葉県・二松学舎大学附属柏高等学校3年)

私、物心ついてからずっと海外へ行きたかったんです。狭い「日常」のループに耐えられなくて、息苦しくて息苦しくて仕方なくて、はるか遠い異国に私を満たすきらびやかな景色を想像したのです。「隣の芝生は青く見える」という言葉をご存じですか?この言葉、私にぴったりだわ。手の届かない全てがそれはそれは青々と見えました。私はたくさんの友人、両親の愛、何不自由ない生活に恵まれた灰色の世界で乾いていたのです。この国は謙虚でないものを嫌います。周囲に感謝し、ささやかな幸せを享受して生きていくことを美徳とします。だから、なんにせよ私の居場所はここにはなかったのかもしれません。
 そんなある日のことです。仲間たちとの談笑(私がこれらを愛していたのもまた事実です)を終えて、一人帰路についた時でした。ふいに、私の体が宙に浮いたのです。何が起きたのか理解できないまま私の体はどんどん上昇し、あたりがまばゆい光に包まれていきました。焦った私がもがきながら上空を見上げると、なんとそこにあったのは巨大な円盤でした。いわゆるUFOだとSFに疎い私でもわかりました。重厚な外装のその姿が光で霞み、それに伴って徐々に薄れていく意識の中、光に視界を包まれ、風を感じながら宙を舞うこの感覚は、私がずっと求めていたものであるような気がしたのを覚えています。
 目を覚ました後はSF映画と遜色ありません。見たこともない生物たちが、聞いたこともない音でおそらくコミュニケーションをとり、なんだかよくわからない器官をぐりぐり動かして私をおそらく見つめました。体のあちこちを調べられたりしましたが、私はよろこびでいっぱいでした。この崩れ落ちるほどの恐怖も含めて、私の五感は未知で満たされていたのですから!
 丸い窓から見える、いつか本で読んだような「宇宙」の星々を眺めているうちに、機体はゆっくりと地球に向かっていきました。その星は、私達生命体が騒がしくひしめきあっている様子など微塵も感じさせない程静かで、冷たく青く、虚しく浮かんでいました。私が焦がれた海外の大地を過ぎ、UFOは的確に私の住む町の上空へと進みました。床が開き、またあの光に包まれ下降していく時、私とてもね、奇妙な感覚に襲われました。だって、いつでも目の前にあった日常の景色の全てが、まるでジオラマのように眼下に広がっているのです。小さな小さな人々が、各々何やら蠢いているのです。それはおもちゃのような建物たちと同じく無機質にも見えました。
 次目が覚めたのは病院のベッドの上でした。私は道で倒れていたところを通行人によって発見されたそうです。深夜になっても帰らず、連絡もつかなかった私の無事を喜ぶ両親に抱きしめられ、そのぬくもりを感じながら。私は、私たちを空から見ているような錯覚に陥りました。目の前の全てが遥か遠い場所で起こっている出来事のように思えたのです。ぬくもりの感覚だけが、妙に近くにありました。あの日から私は空ばかり見るようになりました。海外への興味は消えました。空に散らばった小さな小さな星の輝きだけが、青々と。そう、青々として見えた。海外なんてどうせたかが知れているわ。ジオラマを構成するパーツが違うだけでしょう。UFOの小窓から見た星々だけが、私の世界の色になったのです。
 でも私、気づいてしまったわ。彼らはあの時、硬い物質でできた乗り物を操縦し、音を発してコミュニケーションを交わし、目で私の像を捉えました。彼らも私と同じように、接触し、視認し、もぞもぞと文明を築いているのです。彼らの未知など、全ては生命体という前提の上に派生した概念に過ぎないのです。意識や体、魂だとか生き死に、そもそも「生命体」なんてものは、私が生命体であるから生まれる概念なのです。つまり、私が生命体という枠の中にいる限り、真の未知は存在しえない。胸が高鳴るのを感じました……。生命体という前提を取っ払ったその先の、今の私では絶対に触れられないものたちに。青々をした、その全てに。

以上が姉の遺した言葉の総括である。姉は一年前に死んだ。自ら命を絶とうとしたが死にきれず、昏睡と覚醒を数か月繰り返した後ようやくその生を終えた。彼女は覚醒する度に前述の内容を嬉々として話したため、両親や彼女の友人らは徐々に追い込まれ、いつしか見舞いに行くのは弟である私のみになっていった。
 私から見た姉は明るい人間だった、と思う。友人にも環境にも恵まれ緩やかに人生を過ごしていたように見えた。活発で、幼い頃私と共に虫を捕るだの缶蹴りをするだのして遊んでくれた思い出がある。私が笑うと、姉も笑顔を見せた。
 それでも、私は姉がこんな死に方をしたことを意外に感じない。それどころか、私は姉という一人の人間の死を悲しむべきであるかすら決めあぐねている。私は姉を「生きる」ことに縛り付け続けるべきであったとは思えないのだ。
 姉は幼少期から、新しいものを得る度歓喜し、しばらくいじくりまわしては「これも違う」と放ってしまった。「飽きた」のではなく、「違った」と。少し悲観的な見方をするのなら、彼女は常に走り続けていた。必死に喘ぎ、もがき、逃げ回りながら、全ての渇きを半永久的に満たす存在を探し回っていた。姉は生きている限り追われていたのである。少しでも止まろうものなら全身から沸き上がりその身を喰らい尽くすような、生まれ持ったその強大な衝動……「好奇心」に。
 両親や姉の友人は姉が狂っていく様に耐えかねたのだろうが、死の淵の姉はかつてない程に生き生きとしていた。生きることから解放されつつあるその姿こそ、私の目には奇妙にも姉らしく映った。先程は姉が追われていたと表現したが、姉は最早手の届かない青を追うのに必死で、己を追う焦燥すら目に入っていなかったかもしれない。隔離され社会性を失った姉は、痛々しい姿で無邪気にはしゃいでいた。ようやく追いついた、ようやく掴んだのだと言う様に。
 姉の語った事柄を「狂気」だと受け流すのは簡単だ。何を言っているんだと笑い飛ばすのも一つの受け入れ方だろう。しかし、思想は伝染する。記憶となって、私たちの脳内に居座る。例え嘲笑しても、記憶の中のそれと自分の境界が曖昧になり、「共感」と呼ぶべき感覚に陥る瞬間が来る。
 例えば、ネットを見ている時、とあるアーティストのアンチの投稿が目に飛び込んでくる。アーティストの欠点を具体的に記したそれを見れば、ファンでなくとも不快に思うこともあるだろう。しかし、次にアーティストのパフォーマンスを見た時に例の投稿が脳裏をよぎり、実際にそのパフォーマンスやアーティストの行動から「ああ、このことを言っていたのか」と、「あの投稿が述べていた点」を見つけ、理解してしまう。更に「確かにこれはアーティストの欠点かもしれない」とその意見に対して共感のような感覚を抱くこともある。これは「ある一部分に注目し、それを短所だと捉える視点」を知ってしまったためだ。狂気と受け流したはずの感覚に共感してしまうなんてことも、アーティストの例と何ら変わらず日常的なことなのだ。
 実をいうと、私は誰かに……なるべく大勢に姉について語ってしまいたいと感じる時がある。誰かの記憶にこの話を植え付けてみたいと感じてしまう時がある。私の語った話が、日常のなんらかのトリガーで起爆する時限爆弾として誰かの脳内に仕掛けられる。そしてある日突然……例えばお茶を注いでいる時、手を洗っている時、電車に揺られている時。それらのふとした短い隙間が、秒針が止まって見えるクロノスタシスのように、永遠じみて、意識が浮遊した瞬間、その記憶が呼び起こされる。そして、目の前の全てが確かに「ある程度予想のつく味気ない物質的な集合体」で紡がれているものだと感じてしまう……。
 その感覚を理解してしまった時、人々は何に「青」を見るか?
 人は未知を恐れ、しかし探求する。欲する。「理解できない」に飢える。それらを暴き、解明したいという欲求は時に恐怖すら退けるのだ。それは私にも、無論ほぼ全ての人々に共通するものだ。故に私は、人々の持つそれに語り掛けたくなる。
 古来より、人類は考える葦である。その根源には常に好奇心があった。好奇心の果て、結果として「発明」が生まれ、積み重なって進化した。そんな人間達が生きている事を窮屈に感じ、好奇心を失ってしまった時、姉のように死に焦がれるのか、それとも?私の中に好奇心と呼ぶべき感情をたぎらせるのはそこなのだ。一つの色を見せても、人々は完全に同じ色を見るとは限らない。姉を襲った衝動を味わってもなお、物質的な事象だけで形成された現実のみに価値を置き、「生きること」に執着できる者もいるかもしれない。
 しかしやはりこれは時限爆弾に変わりない。爆発したが最後、誰かの人生を粉々に粉砕してしまう威力を持ちうる。私はその危険性を理解し、広めるべきではないと、理性が諭す……。それでも私の胸の奥で、人々に仕掛けた時限爆弾が起爆しようとしまいと、誰かが死に焦がれようと焦がれまいと、姉の感性が誰かに影響するところを観測したい、という思いが首をもたげている。
 私は、姉の思想に魅せられてしまった。派生して、好奇心を得てしまった。
 寒気のするようなその事実だけが、ただ、青々としてここにあるのだ。

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佳 作 「ドアの向こう」 芹田 敦史(福岡県立北筑高等学校2年)

 目が覚めると、一面の白色が目に飛び込んできた。起き上がり、ここは何処だろう、と思考を始めた途端、
「気がついたかい?」
と、背後から声がした。驚いて振り返るとーーー私がいた。いや、私は此処にいるのだから、正確には、私の姿をした『誰か』がいた。
 幾つもの疑問が一遍に押し寄せて来て混乱していた私に『私』が話しかける。
「理解できていないだろうから、一つずつ説明していくね。まず、ご覧の通り、私は君だ。といっても、本当に君というわけではない。君の『鏡』とでも言おうか。そして此処は、今眠っている君の本体が作り出した世界、つまり夢の中だ。ただ、君が此処を出るまで本体は起きれないよ。」
 『私』から目を離し、周囲を見回す。白一色の、天井がドーム状になった場所だった。広さは、教室を横に二つ並べたくらいか。
 そして、『私』の後ろに目をやる。其処には、赤・黄・緑色の三つのドアがあった。
「あれは?」
「あのドアは、君のこれからの生き方の選択肢だよ。ドアの外はそれぞれ違う世界に繋がっているんだ。まぁ、行ったら分かるよ。」
 小さく頷き、嘘らしく微笑む『私』の横を通って静かにドアへ向かう。
 赤色のノブに手をかけ、捻る。キィ、という乾いた金属音とともにドアが開き、足を踏み出すと、
「え?」
空中に立っていた。浮くのではなく、立っていた。しかし私は、「まぁ夢だからこんなこともあるか。」と自分でも驚くほど冷静に納得していた。地上およそ五メートルほどの高さに立っていたが、不思議と恐怖はなかった。
 眼前には、見慣れた校舎があった。
 グラウンドではサッカーが行われていた。その中で、男子に紛れても尚、一際目を引くプレーをしていたのは………私だ。
 私は小さい時から人並み以上に運動神経がよく、体育の授業などでよく注目されていたが、部活の勧誘はすべて断ってきた。
 なるほど。将来の選択とはこういうことか。生まれ持った才能を元にスポーツの道へ進めば、努力の仕方によっては、プロ、さらには日本代表も夢じゃないかもしれない。
 グラウンドに視線を戻し、動き回る私を追いかけていると、突然景色が波打つように変化し始め、体育館を映し出した。そこではバスケットボールが行われていた。パスをもらい、ドリブルし、シュートを決める。周りからは歓声があがる。
 それからも、次々と景色は変わり続けた。卓球にバドミントン、水泳や弓道、柔剣道など、やったことがない競技までリアルに映し出されていた。
 たしかにスポーツは好きだが、本気でやりたいかと問われれば頷きにくい。
 スポーツ選手かぁ、と他人事のように呟きながら、振り返ってドアを開いた。
 中では、『私』がさっきと変わらない表情でこちらを見ていた。私は特に何も言わず、黄色のノブに手をかけた。
 ドアの先は教室だった。私が普段授業を受けている場所。その後ろから全体を見下ろしていた。
 私の席の周りを三・四人が囲んでいる。おそらく休み時間なのだろう。楽しげな声とともに、時折笑い声も聞こえてくる。
 次は友達か、と思った。
 私は集団でいるのはあまり好きではないが、愛想のよさは自負している。男子とも分け隔てなく接しているが、最も仲がいいのは今集まっている子たちだろう。
 場面が変わり、グラウンドに移る。サッカーが行われていた。が、コート内に私の姿は見当たらなかった。周りを見渡すと、グラウンドの端で談笑している五人組が目に留まった。
 私は、そんな私に背を向けて、ノブを回した。
 ドアを出て、元の部屋に戻る。正面では、相変わらず無言でこっちを見ている。
 さっき、グラウンドで喋っている私たちを見たとき、不思議な感覚に襲われた。失望感とも虚無感とも言いにくいものだった。
 しかし、考えても分からないという結論に至り、とりあえず緑色のドアを見てみることにした。
 ドアの先に広がっていたのは、毎日見続けている景色、通学路だった。
 向こうから歩いてくる人影が目に入った。それが私だということにはすぐに気づいたが、私の隣にもう一人誰かがいた。顔はモザイクがかかったようにはっきりとは見えないが、背の高い男のようだった。
 あぁ、彼氏だな、と分かった。
 男子からそれっぽい目で見られることは度々あったが、私自身恋愛感情を抱いたことはなかった。
 男と手を繋いで話しながら歩く私は、とても楽しそうに笑っていた。
 その後、どれだけ場面が変わっても、いつもあの男がいた。登下校中も、休み時間も、帰宅した後でさえ、彼と通話していた。その所為か、友達たちと話しているシーンは一回も見られなかった。
 私は、こうなってしまうのだろうか。彼氏をつくったら、周りとの関わりは捨ててしまうようになるのだろうか。特定の男子のみと関わり、それ以外の人間を排除するような寂しい人間になってしまうのだろうか。
 そんな考えに、少なくともそれは無いな、と自分で訂正を入れ、静かに背後のドアを開けた。
 開けた先では、全く同じ表情で『私』が待っていた。
 しばらくの沈黙の後、『私』が口を開いた。
「それで、どうするの?」
「………何を?」
「ん?あぁ、説明してなかったか。今見た三つのうち、一つを選ぶんだ。それが、これからの君の生き方になるんだ。まったく全部あの通り、とはならないかもしれないけど、君が見たもので考えてもらって大丈夫だよ。」
「一つだけなの?」
「そうだね。」
「どうして?」
「一つだけにしたほうが、その後の人生を進めやすく、開花させやすくなるからさ。」
「………嫌だ。」
「なぜだい?」
「一つしか選べないなんて面白くない。そもそも、生き方に最初から選択肢をつくる時点で間違ってる。人生は、その人がその時その時の小さな決断を繰り返すことで道ができると私は思ってる。それが、最初から決められた道を通るなんて、本当に面白くない。私はスポーツしたいし、友達とお喋りしたいし、彼氏もつくりたい。自分の生き方なんて勝手に決められたくない。私が進む道は私が決める。だからここから出して。」
「………本当にそれでいいの?」
「うん。」
「ここで選んだ方が後が楽だよ。」
「うん。早く出して。」
 『私』は小さく溜め息をついて言った。
「そこまで言うならしょうがない。本当にいいんだね?後悔しても遅いよ?」
「後悔なんてしない。したくない。」
 『私』は微笑んで指を鳴らす。
 パチン、という音を最後に、私の意識は途切れた。

目が覚めると、茶色の天井が目に入った。よく知った寝室の天井だ。
 なぜだか頭がすっきりしている。言いたいことを全部ぶちまけた後のような感じがする。
 階下からの私を呼ぶ声で意識を引き戻される。制服に着替えて登校の準備をする。
 今日は何をしようか。誰も知らない一日にわくわくしながら、私はノブを回した。

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佳 作 「夏の日の夢」 東 那侑多(新潟・長岡工業高等専門学校3年)

 ――燦々と降り注ぐ真夏の陽光。
 もはや暴力にも例えられる暑さ。休み明けの月曜日だと言うのに、道行く社会人は粛々と働きに出かけている。こんな紅蓮地獄、外に出るだけで辛いと言うのに。
「――まぁ、日頃気侭に過ごしている僕が言える道理は無いのだが」
 ここは深山町。都会と田舎の境目に立地する小さな町。そんな平凡な街の片隅に、我がCB古書店は構えている。
 古臭いラジオが今日の最高気温を読み上げる。気温は三十六度超え、猛暑日だそうだ。外出を控えるよう淡々とナレーターが伝えている。八月半ばにさえなっていないというのに、暑さというやつも存外働き者なのかもしれない。――尤も、働き者の人間にとってそれは喜ばしいことではないが。
 四六時中閑古鳥がオーケストラを開いている我が店に人はほとんど来ない。趣味が九割とはいえ、こんな有様じゃあ店を開いたって仕方がない。
 外に出て呼びかけるべきか――そう思い席を立つものの、外の気温を思い出し、冷房の効いた店内に引きこもってしまう。
「仕方がない、かき氷でも作りながら客人を待つとしよう」
 そう、夏の暑い日に最も適した食べ物はかき氷に違いない。――スイカ、アイスクリーム、素麺……夏で好まれる食べ物は数多くあれど、かき氷ほど似合う食べ物はない。
 エアコンの効いたカウンターから離れることに口惜しさを感じながら、物置の鍵を懐に収める。
 裏手から離れの物置に向かう。こんな短い距離でさえ、日差しにあたった瞬間汗が吹き出し服に汗の跡が付いてしまう。
 物置にたどり着く。壁の白さも瓦の輝きも失われたソレに、かつての立派さは欠片もない。ただ、使えればそれでいいかと手入れをしていない自分に嗤ってしまう。
「――ごほごほ……埃がこんなにも、一度大掃除するべきか」
 する気が一切起きないからやる予定はないのだが、まあ考慮には入れておく。
 吹き込む熱風で巻き上がる埃から鼻と口を守るべくシャツの襟元で顔の下半分を隠す。
 廃材、杵と臼、灯油ストーブに模造刀……雑多に放り込まれた堆積物の中からかき氷機を探すという現実に、思わずため息をついてしまう。
「……探すか」
 猛暑、猛暑、猛暑――クラクラするような暑さに、冷房に慣れきった脳髄が茹だり悲鳴を上げる。
 何分経っただろうか。懐中時計を取り出し確認してみると、もう三十分が経過していた。
「――よう、テンチョー。こんなガラクタ倉庫で何をしてんだ?」
 声をかけられて、ようやく侵入者に気づく。
「……ああ、葛城(かつらぎ)君か。何って、捜し物を探しているのさ」
「探しものって? もしや伝説の――」
「普通のかき氷機だ。気まぐれにかき氷を作ってみようと思ってね」
 リュックを背負い、ベースボールキャップを被る大柄な少年が笑顔でこちらを覗く。
――葛城一(かつらぎはじめ)、僕の店に度々訪れる厄介者の一人。元気ハツラツとしたいたずら小僧、もう中学生なのだから、大人しさというものを学んでほしいのだが……。
「――おっと」
「おいおい大丈夫かよ? 水分補給とかしているか?」
「……していないな、こんなに探す羽目になるとは思っていなかったからな」
 立ちくらみ、汗を流しすぎたかも知れない。水筒の用意をしてなかったのが仇となった。
「はぁ……しょうがない。これでも飲めよ、テンチョー」
 葛城君が投げ渡したのは、未開封のスポーツドリンク。ボトルの表面一面に水滴がついているそれは、茹だった僕の体に冷たさというものを教えてくれる。
「いいのかい? 見た所、買ったばかりのようだが……」
「構わねーよ、ここでアンタがぶっ倒れたほうが困るし……なによりオレは今すごくかき氷が食いてーんだ」
「そうか。そういう訳なら、遠慮なく頂こう」
 キャップを捻り、フタを開ける。甘い、白濁としたドリンクが喉を潤し体から熱を奪っていく。――身体が、少しラクになる。
「ありがとう。それじゃあ、探索を続行しようか。手伝ってくれるかい?」
「アンタの要らないモン持ってってもいいなら」
「……はぁ、そのぐらいなら良いだろう。事前確認はしてくれよ?」
 彼の図々しさに苦笑する。スポーツドリンクの恩もあるから文句も言えない。
 それから、もう三十分。モデルガン、携帯ゲーム機、下駄などなど……相当数の骨董品が彼のリュックサックの中にしまい込まれていき……そろそろ諦めるべきかと考えた頃。
「――ん? おい、テンチョー、これは……」
「っ! それだ。でかしたぞ葛城君!」
葛城君が推定二十年前の地層から掘り起こしたペンギン型のかき氷機。この一時間探し求めていた物である。
「よし、よし! よし!!  それでは店内に戻るぞ、ハリーアップだ!」
「テンション上がり過ぎだぜテンチョー! ところで氷塊はあんのかよ? コレ、そういうタイプのやつだろ?」
「それについては問題ない! 先日、アスカ君が氷の塊を冷凍庫にブチ込みやがってね! 処理に困っていたトコロさ!」
「……オレが言う資格はねーけどよ。テンチョ―、アンタ一回交友関係見直してみたらどうだ?」
 葛城君の言葉を無視して店内に戻る。
 冷房の効いた屋内、客の来ない店内は無視して、脇に抱えたかき氷機の点検を済ませる。問題は、特にナシ。今直ぐにも使えるだろう。
「ふぅ、それじゃあかき氷を作るとしよう」
「ヒュウ、待っていました!」
 準備は万全、氷塊も、カルピス原液も餡もシロップ各種も揃っている。
 金槌で氷を砕く。バラバラと四つに別れた氷の中から四番目に大きい氷を選んでセットする。
 ――力一杯にハンドルを回す、パラパラと、雪のようにビードロの器に積もっていく。小さな雪山が出来あがる光景に、葛城君は目を光らせながら眺めている。
「先に食べるかい?」
「いいのか? それなら、エンリョなく頂くぜ!」
 出来上がったかき氷を受け取って、葛城君はカルピス原液で味付けをする。そんな姿にふと、少年時代の自分を思い重ねてしまう。かつての、小さなユメ。それが一瞬叶えたような気がして……とっくに叶っていることを自覚して、自分のかき氷を作り始める。
 ――削る、削る。くるり、くるりと氷を削る。積もるのは幻想、夢を載せる儚さ。
 太陽はもうすぐ頂天に登りきり、暑さはさらに本領を発揮するだろう。
――けれど、そんな現実はほんの少しの幻想で隠してしまえる、乗り越えてしまえる程度の現実だ。
 餡ときな粉を小さな雪山にトッピングする、殺風景な白銀世界に黒ときつね色の彩りが加えられる。和風かき氷、白玉あたりもあれば尚良かったが、今はこれだけで十分だ。
 しゃくり、さくり。銀色のスプーンですくい取り、幻想を口へと運ぶ。
――溶けて、消えて、幻想のように遺り。外の暑さを一時忘れる甘さ。
――ずきり、脳を串刺しにするような鋭い痛み。痛みで強制的に現実に引き戻す理不尽さえ、かき氷の良さなのかも知れない。横を見れば、葛城君も同じように頭を押さえて――笑っていた。
「美味いな、かき氷」
「そうっすね、テンチョー!」
 器が空になったのか、器を置いた葛城君はかき氷機のハンドルを勝手に回す。
 そんな光景を笑いながら、僕はかき氷を食べて、頭の痛みに眉を顰めながら――この夏の一時を楽しむ。
 夏の夢は一夜で冷めるものだけれど、この一時は決して忘れたくないと、そう願いながら。

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