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優秀賞 
「閉じ込められた音楽」 宮脇 和希(愛媛・愛媛大学附属高等学校2年)
「人魚」 小川 友希(東京都立立川国際中等教育学校2年)

 

優秀賞 「閉じ込められた音楽」 宮脇 和希(愛媛・愛媛大学附属高等学校2年)

 昔々、東のそのまた東に、それは貧しい国がありました。大きな戦争に負けて、娯楽なんて何一つない国でした。
 「雨が止むまで、続けこの歌。遠く消えるまで、届けこの声。」
 苔のむした石造りの壁に、近年の流行り廃りなど知る由もない、二十年前のプロパガンダ・ポスターが堂々と一枚。廃れた街外れの円形劇場に、一人歌う少年がいた。観客席には無数の朽ちた椅子が立ち並び、気分は御礼満員の大盛況で、土砂降りの雨だけが、少年の歌声に万雷の拍手を送った。この国で一番の有名歌手「ダンテ」のように、幾万の人々の前で歌う。ぼんやりとした空想の中で少年は毎日歌い、踊った。繭の中にいるような、温かな心地がした。
 ひとしきり歌い終わると、少年は家へと帰ってゆく。家と言っても、両親を亡くした少年が帰る場所は孤児院だった。亀裂の入った壁に、吐瀉物のような酸っぱい臭気が充満した、二・五メートル四方の狭い部屋だ。中世ヨーロッパの地下牢獄を彷彿とさせる部屋には、七八回転レコードが堂々と一つある。
 だがレコードをかけるといつも、ある男が隣の部屋から飛んできて、少年を怒鳴った。
「うるさいと言っているだろ。」男は孤児院のカンリシャだ。親指ほどある葉巻を咥えて、腹だけが肥えた、貧相な身形の男だった。少年はわなわな音楽を止める他無かった。
 少年に許されたのは、一日一時間の外出だけ。その刹那を、少年は円形劇場に通うことだけに費やした。
 傍目に見れば窮屈な生活だが、少年は心の底から幸せだった。少年にとっては、孤児院での生活と、一日一時間の冒険が世界のすべてで、外の世界の事など何も知らなかった。故に、これまでの人生がいかに薄遇であるかなど露程も知らず、皆自分と同じ生活を送っている、そう信じ込んでいた。少年はこのとき、「幸せ」以外の感情を持ち合わせていなかった。
 雨降りの日、今日は珍しく円形劇場に先客がいた。泥に塗れた子供が数人、屋根のないステージで騒いでいる。彼らはここらの子供であるだろうが、無論少年は彼らと関わったことは無い。しかし少年の目には、子供らが楽しそうに騒ぐ円形のステージがまるで、外界と遮断された、それでいて確かな幸せを閉じ込めている、シングルレコードのように映った。少年はその音楽の中に飛び込んだ。
 それからたった数十分ではあったが、少年はこれまでに見たことも、聞いたことも無い遊びを楽しんだ。経験したことの無い幸福感に包まれ、珍しく今日の牢獄でレコードが回ることは無かった。
 翌日。少年は瞳を輝かせながら「きょうはなにするの?」そう尋ねたが、友達の一人が質問を遮って言った。「どうしてきみはすぐに帰ってしまうの?」友達は透き通るようなブラウンの瞳を見開いている。「そうしないといけないから。」「どうして?」「・・・。」少年は黙り込んでしまった。友達は続ける。「きみはどこに住んでいるの?」「お母さんとお父さんは?」その場には暫く穏やかな沈黙が続いた。「なぜ両親がいないのか。」それは少年にとって慣れきった質問。少年はいつものように「分からない。」と答えた。少年は両親が居ないことを特別不利に思ったことは無い。だのに今日は友達の悪気のない、ある意味で鋭い疑問が少年の胸に突き刺さる。少年は胸の奥がギュッと締め付けられた感じがした。それが劣等感に似たものであるとは、このとき少年自身気づかなかった。
 「うるさい。」泣きながら帰ってきた少年にカンリシャは怒鳴った。少年は早足で部屋へ逃げ込み、レコードの針を落として、泥のように眠った。二世代前の土臭いサウンドが部屋の隅々にまで、踊りながら幸せを運ぶ。
 「雨が止むまで、続けこの歌。遠く消えるまで、届けこの声。」
 昔々、東のそのまた東に、それは裕福な国がありました。大きな戦争に勝って、ほんの少しの人たちだけがお金を手に入れました。
 男は世界一の歌手だった。何百億という資産を手にし、世界数十億人からの声援を受けた。巨額の富で自前の巨大コンサートホールをこしらえ、会場は満席、歌い終わると、拍手喝采の雨が、男に降り注いだ。
 豪勢なシャンデリアの煌めく、小さな町の広場ほどあるリビング。傍目に見れば、豪華絢爛で何一つ不自由のない生活に思われる。白髪の目立つ男は、大理石の壁に淡く映る自分を見つめて言った。「おい、シヨウニン、俺が死んだら、遺骨はあの円形劇場に埋めてくれないか。」シヨウニンは少し驚いた様子で話した。「突然何を仰るのですか。」「俺は最近どうも自分が幸せだと思えないのだ。」「いえ、莫大な富と名声を手に入れた貴方様が、幸せでないハズがないでしょう。」「いいか、俺はもう長くない。だのに俺は家族とやらも友人とやらもいたことがない。俺の両親は、俺が物心ついた時には既にこの世にいなかった。億万の金ばかり残してな。周囲からはドル箱から生まれた子だと後ろ指を指され、友人になろうと俺に近付いたのは、金目当ての連中だけだった。俺は、」男は言葉を詰まらせた。人生六十五年分の高貴な葛藤が脳裏をよぎった。しかし大理石の壁は冷たかった。
 「いや、やはり俺はシアワセだ。」
 広いリビングには、淋しげに佇む三三回転レコードが一つある。シヨウニンは何かを思い出したようにその針を落とした。
 「雨が止むまで、続けこの歌。遠く消えるまで、届けこの声。」
 ある晴れの日でした。少年の元にそれは貧相な身形の男がやってきました。不思議なことに、二人の名前はぴったり同じでした。 
 「うるさいと言っているだろ。」誰かに怒鳴られた気がして男はベッドから飛び起きた。寝汗が冷えたせいなのか、身震いがした。リビングにあるレコードがビリビリと不快な音を立てている。男はもう一度身震いがした。
 ひびの入った石畳の階段に、かの有名歌手「ダンテ」のライブポスターがへばり付いている。誰かが踏んだのであろう。しかし妙である。普段は人っ子一人いない場所だ。「誰かがいる。」不意に胸の鼓動が速まった。
 階段を駆け足で登りきると、石造りの壁に見覚えのあるプロパガンダ・ポスターが貼ってあった。昔と全く変わらない風景の不思議に呆気にとられていると、壁の向こうから歌が聞こえてきた。「遠く消えるまで、届けこの声。」壁の向こうは、質素な円形の劇場だった。舞台の中心で子どもが歌っている。土臭いサウンドにメロウで温かみのある歌声。男が聞き間違うはずがない。それはまさしくあの「ダンテ」の曲であった。
 しかしそんなハズはない。胸の鼓動が男の記憶を激しく打つ。あの曲は世に出していないのだ。男はたまらず少年の元へ駆けつけ、隣に腰を降ろして尋ねた。「君、名前は?」少年は少し怯えているように見えた。「そうだね、話題を変えようか。君はあの歌が好きなのかい。」男は穏やかな口調で尋ねたが、少年は男の質問を遮った。「おじさんにはお母さんとお父さんがいるの?」男は自分の耳を疑った。「どうして両親がいないのか。」それは、男とって慣れきった質問。男は胸の奥がギュッと締め付けられた感じがした。男はもう一度、静かに尋ねた。「君、名前は?」
 「ダンテ。」
 「そうか。」男の胸の鼓動はようやく穏やかになった。「僕に両親はいない。君にも両親がいないはずだが、辛かったよな。」少年は首を横に振った。
 少年と話すうちに、男は自分と少年の境遇があまりに似ていることに驚いた。男は言った。「いや、認めんぞ。俺はこんなに貧相ではない。すまない、俺はいささか勘違いをしていたようだ。俺たちは赤の他人だ。」男は続ける。「それにしても君は本当に不遇だな。服も実に貧相だ。これで好きなモノでも買うといい。」男は勢いよくポケットに手を入れたが、出てきたのは枯れ葉一枚。それによく見れば、男の服装は少年に劣らず貧相である。男は動揺し声を荒げて言った。「いいか、勘違いするなよ。普段はもっと良いものを着てる。俺は大金持ちなんだ。」「それに朗報だ、お前に金をくれてやろう。お前の将来は幸せなものになるぞ。」慌てふためく男を少年は不思議そうに見つめながら言った。「僕はもう幸せだよ。僕はここにいれば、何百年も何千年もこうして歌を歌っているような、幸せな気持ちになるんだ。僕には歌と時間がある。これよりも幸せなことってあるの?」
 男は強張った頬を静かに落として言った。「ああ、そうだな。」男の目は少しだけ潤っていた。「君の言う幸せは何だか知らないが、僕は両親や友達のいない寂しさから、歌を歌い始めた。最初はその寂しさを埋める為の歌だったよ。でもそれはいつしか僕の生業となって、僕の歌にはお金が付き纏い始めた。」少年が尋ねた。「お金があれば幸せなの?」男の奥歯がギシギシと不快な音を立てる。「分からない。でも、身寄りのない僕はお金を稼いだら幸せになれると信じるほか無かった。」
 「でも違った。歌を使って金を稼ぐことが僕の「幸せ」では無かった。歌を歌い、歌詞の中に家族や友人を空想することが僕の救いで、歌そのものが僕の『幸せ』だったんだ。」少年に男の話は殆ど分からなかった。けれども、苦しそうな男を元気づけようと、もう一度レコードの針を落として、歌った。
 「届けこの声。」誰かの歌声が聞こえたが、男はベッドで昏々と眠っている。リビングには心地よい音楽が流れていた。それは、男が幼い頃に歌手を夢見て書いたあの曲だった。
 ダンテの遺骨は円形劇場に埋まっている。

受賞者コメント

まさか受賞するとは思っていなかったので、嬉しい限りです。
夏休みの課題に読書感想文、エッセイ、短編小説の三つが選択肢として与えられていました。読書感想文は小学生のころからずっと書いてきたため、意欲が湧かず、また自己中心的な文章を書きたく無かったために、エッセイも書きませんでした。そうすると必然的に短編小説が残ったため創作しました。
短編小説を書くにあたって、第一に現実を描く作品にはしたくないという思いがありました。小説はあくまでエンターテイメントの一つであるべきで、現実の問題を取り上げた教訓的な文章は、小説ではなく評論文の類いであると考えています。だから私は現実の問題(感染症やジェンダー平等など)を決して取り上げませんでした。心の休息を求めて小説を手にした人が、いざ本を開くと「新型コロナウイルス」の文字では狼狽してしまうと思います。勿論それは現実からの逃げではなく、ただ日々それらの問題に揉まれているであろう人々の心の休憩場所として私の小説を提供したいという思いがあった故です。そこで私はコンセプトを決めました。それは「夢を見ているように朧気で、非現実的な文章」です。
工夫したのは少年と男、二人の対比です。二人の境遇を描写するときには生活環境や周囲の人間関係などを似た表現を使いながら描きました。また、少なくとも二文に一か所は何かしらの伏線を張りました。伏線はすべてタイトル「閉じ込められた音楽」に集結するが、伏線を張って回収してはの繰り返しが、小説を書く中で一番楽しかったです。
創作を通して、頭に浮かんだ映像をコトバにする力、自分の世界を形として表現する力がつきました。洋画好きの祖父の影響だろうが、小さいころからいわゆる「ものづくり」に関する仕事(エンタメ系、執筆、映像関係など)が好きで、そちらの進路も考えはしましたが、現実的に、法学部志望です。あなたの考えていること、独自性、世界観を全部開放してください。

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優秀賞 「人魚」 小川 友希 (東京都立立川国際中等教育学校2年)

 彼女は六年三組の教室の後ろにある水槽で悠々と泳いでいた。私たちがこの小学校に入った時から。あるいは、もっと前から。
「その人魚には触らないように」
 私はそのルールを掟のように死守して、彼女を視界に入れることすら厭った。彼女の話題を口にすることもなく、彼女など存在しないように振舞った。一度も大人に逆らったことのない優等生として、彼女を自分の中から排除しようと努めた。私は学級委員長だった。
 けれど彼女の水槽は巨大だったから、どうしても意図せず彼女が目に入ってしまう瞬間があった。その直後は必ず激烈な後悔と自分への嫌悪に苛まれ、その憤悶は最終的に彼女へ矛先が向かうのであった。
 村田ゆうみがクラスで幅を利かせ始めたのは、一学期も中盤に差し掛かったころだった。
「その人魚には触らないように」
 最初は彼女を禁忌のように扱っていた生徒たちも、一か月経てば慣れと緩みから彼女に興味を示し始めていた。顕著だったのが村田ゆうみだった。村田ゆうみはクラスを取り仕切るリーダーの風情で教室を闊歩し、常に親友という名の二人の側近を従えていた。近藤れいなと、光畑さくらといった。二人とも痩せ気味でひょろ長かったので、恰幅の良い村田ゆうみはさらに太って見えた。
 はじめは些細なことだった。ある日村田ゆうみはずかずかと水槽に近づき、バンバンとガラスを手で叩いて、何事もなかったように自席に戻った。しかしそれは凪に落とされた小石のように、波紋を描き、輪を広げていった。村田ゆうみのその行動を、クラスのみんなが続々とまね始めたのだ。一人続き、二人続き、やがてクラスの半数が休み時間に水槽の前に列をなすようになった。彼らはバンバンと水槽を叩き、好奇のまなざしで彼女を観察して、後続に譲るのだった。その間、彼女はずっと微笑んでいた。長い黒髪を水に揺蕩わせ、銀光りする鱗の足を震わせて、水槽の分厚いガラス越しに生徒を眺めていた。私はその行列を軽蔑した。
 それがしばらく続いたある日、変化が起きた。村田ゆうみがいつものように水槽を叩くかと思いきや、突然手を引っ込め、かわりに彼女に話しかけたのである。
「ねえ、どうして足がないの」
 彼女は答えなかった。変わらず微笑みを浮かべていた。
「どうして足がないのってきいてるの」
 何度きいても、結果は同じだった。いつのまでたっても答えない彼女にしびれをきらしたのか、村田ゆうみはご立腹な様子で上から彼女の水槽をのぞき込むと、ためらいもなく水に手を突っ込み、彼女の揺らめく髪の毛をむんずと掴んだ。
「みみが、きこえないの?」
 それでも彼女は、黙っていた。
 私はただ教科書を盾のように顔の前に広げて、ひたすらそのやり取りを無視していた。私は中学受験をして、名門の女子校に入る予定だった。内申点は重要で、私は真面目で勉強熱心である必要があった。村田ゆうみとその取り巻きと、彼らに流されるままのクラスメイトがいる学区中学校には、どうしても入りたくなかった。彼らを無視して、孤高のごとく一人で教科書を読むことは、彼らから自分を守ることでもあった。
「その人魚には触らないように」
 私は彼女に関わらないようにするために、学級委員長であるにも関わらず村田ゆうみの一連の行動を黙認していた。彼女の存在を肯定してしまえば、私の中の何かが壊れてしまうような気がした。だって、だって、私は。
「その人魚には触らないように」
 私は、本当は。

「ゆうみ、きめた。ゆうみ、ダイエットする」
 村田ゆうみがその幼稚な宣言をしたのは、梅雨明け、一学期の終わり頃だった。村田ゆうみは給食に頑として手を付けなかった。給食時間終了のチャイムが鳴り、ほかの生徒が続々と皿を片付け始めても手を動かさない村田ゆうみに先生は呆れ顔で、昼休み中に半分は食べなさいと言い残し、職員室に消えた。
「ゆうみ、たべないからね。これ、だれかにあげる。あっ、そうだ」
 そう言って、いきなり何を思いついたのか目を輝かせて立ち上がり、給食を持って彼女の水槽の前へ歩いて行った。
「これ、あげる」
 村田ゆうみは、興味津々といった顔をして、捕まえた蛙を握りつぶす子どものような好奇に満ちた目で、給食のカレーを彼女の水槽に流し込んだ。水が瞬時に茶色く濁り、彼女の表情は見えなかった。教室はざわついていた。騒ぎ立てる生徒の声は職員室に響いたらしく、担任の先生が慌てた様子で駆け付けた。男の先生だった。優しい先生だった。苗字を乗川といい、生徒から「のりんちょ」と呼ばれ慕われていた。その先生が彼女を一目見るなり普段からは想像もつかない剣幕でどなった。
「誰だ!」
 教室が凍り付いた。
「こんなこと、誰がした」
 教室中の視線が、村田ゆうみに集中していた。私は、それでもやはり教科書を顔の前に立てていた。盾が必要だった。今までで一番、私は逃げ出してしまいたかった。
「村田ゆうみ、来なさい」
 名前を呼ばれ、びくっと体を揺らした村田ゆうみは、まだ皿を手に持ったままだった。
「それと、山本なみさん。あなたも来なさい」
 私は微動だにしなかった。一ページも進んでいない教科書を広げたまま固まっていた。けれど先生が呼んだ名前。それは確かに私の名前だった。村田ゆうみが皿を床において青ざめた顔で教室を出たので、私も教科書を閉じ、椅子に両手をかけた。
「村田さん。なぜあんなことをしたんですか」
 先生は真顔だったが、眼鏡の奥で村田ゆうみを見る目は厳しかった。村田ゆうみが黙りこくってうつむいているので、先生はため息をついた。村田ゆうみの顔が泣き出しそうに歪んだ。ため息を聞いて、いつも優しいのりんちょの失望を感じたと見えた。
 先生が私の方を向いた。瞳から叱責の色は消え、むしろ懸念を湛えた表情をしていた。
「村田さんは、日ごろからああいったことをしていたのですか」
 私が答えずにいると、先生は少し眉間のしわを深くして、「……学級委員長は、クラスで起きたことを報告する義務があります」とためらうように付け足した。
 私は無表情で首を横に振った。しばらくの静寂の後、村田ゆうみが、駄々をこねる子どものように泣き始めた。
 一ヶ月後、村田ゆうみは転校していった。それから会うことは無かった。

「卒業おめでとう」
 卒業式を終えた後の校庭で、私の車椅子を押すお母さんが感慨深げに言った。私は証書を抱えて自分のスカートを見ていた。第一志望だった女子校の制服のスカートを。そこから突き出て、両足とも膝で終わっている不完全な足を。銀光りする車椅子のホイールを。
 突然、車椅子が止まった。
「あら、あの子、お友達?」
 顔を上げると、見覚えのある恰幅の良い女の子が私に駆け寄ってくるところだった。
 私はお母さんに、先に行っていてと伝え、その子がこちらに来るのを待った。
 村田ゆうみだった。背が伸びていた。顔つきは最後に見たときよりも大人っぽくなっていた。
「なみちゃん。久しぶり」
 隣町に引っ越したのだと、風の噂で聞いた。村田ゆうみがいなくなって、クラスは随分と平和になった。あれから彼女はずっと一人で水槽の中にいた。  
「わたし、謝りたいことがあるの」
 村田ゆうみは、真っ直ぐな瞳で私を見つめた。少しきれた息が、言葉に重みを与えている。
「ごめんなさい。ひどいことして。なみちゃんが読んでる教科書を叩いたり、髪の毛を掴んだり……カレーをかけたり。でも、わたし、わたし、ほんとうは」
 私は、本当は。村田ゆうみが泣きそうな顔になった。
「わたし、ほんとうは、なみちゃんと友達になりたかったの」

私はお母さんに断って、校舎に戻った。廊下でのりんちょとすれ違った。目にハンカチを当てていた。私に気が付くと慌てたようにハンカチを後ろ手に隠し、「どうした、帰りなさい」と言った。私は、教室に忘れ物をしたのだと説明した。
 忘れ物をしたのだ。大きな大きな忘れ物を。
 彼女はやはりまだそこにいた。大きな水槽の中で何も変わらず微笑んでいる。私は初めて、彼女を正面から見つめた。彼女を嫌ってきた。そうすることで自分を守ってきた。でももう、その必要はない。
 告白します。そしてあなたを解放するわ。
「その人魚には触らないように」
 私。本当は。
「どうして足がないの?」
 私は。
「わたし、ほんとうは、なみちゃんと友達に」
 私は、本当は。

私は、本当は、人魚になりたかった。

鏡の向こうで彼女が、さようなら、と微笑んだ。

受賞者コメント

この度は優秀賞にご選出いただき誠にありがとうございます。このような賞をいただけて大変光栄です。自分の作品と向き合える機会を作っていただいたことに感謝いたします。この受賞を動力にこれからも創作活動を続けたいと思います。
書き溜めた短編小説をパソコンに埋もれたままにするのはかわいそうだと思って、供養のつもりで応募しました。夢で見た光景をよくネタにして文章を書きます。違う日に見た夢同士を繋げて話を作ったり、夢の内容に想像を付け足していったりする作業はいつも楽しいです。
創作活動を通して、辛いことや悲しいことがあっても、これも小説を書く時の糧になると思って、気持ちを切り替えてポジティブに構えられるようになりました。
高校卒業後は大学に進学して、文理を問わず興味のあるたくさんのことを学びたいです。その中で、本当にやりたいことを見つけたいと思います。
私の場合は、無意識に主人公を自分に重ねて書いていることがよくあります。私だけでなく、多くの人が文章を書くとそうなると思います。ときどき、書いた文章の中に自分でも気が付かなかった自分の本音を見つけてはっとします。読み返すと、その当時の自分の心の中を覗いているようで気恥ずかしくなりますが、自分の成長や忘れていた大切なことに気付かされるので、それは創作活動を継続することの良いところだと思います。もし創作してみたいという人がいたら、挑戦して、ぜひ続けてみてほしいです。

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