ここからは「全国高校生創作コンテスト」の現代詩部門に応募を考えている高校生に向けて、過去作品や過去受賞者の作品や、水無田先生が影響を受けた作品などから、詩を創る際のポイントを教えてもらおう。

高校生創作コンテスト 過去の応募作品から

第20回(2016年)、第21回(2017年)と複数の入選作を選出させていただいき、とくに第21回は同校の丸山優月さんの「道端に枯れた花」に最優秀賞を贈らせていただいた神奈川県立麻生高校のみなさんの作品は、題材や詩へのアプローチ、韻律のセンスなどがとても現代詩らしい作品が多く、印象深かったですね。当時の文芸部顧問を務められていた竹下洋一先生に、現代詩をよくお読みになるんですかとうかがったら、むしろ定型詩がお好きだとおっしゃっていました(笑)。どうしてこういう作品を書く生徒がたくさん集まったのか、偶然なのかやはり竹下先生のセンスが現代詩に合っていたのか、とても不思議でしたが、その後竹下先生が川崎高校へ赴任されたら、今度はそちらの生徒さんが入選しました。何だか、スタンリー・キューブリック監督のSF映画『2001年宇宙の旅』のモノリスのような先生ですね。いらっしゃるところで、生徒の現代詩の執筆が活性化するようです。

毎年最優秀作は力がある作品ばかりなのですが、ひときわ迫力があったのは第20回関谷朋子さんの「馬を飼う」だと思います。2016年のオックスフォード英語辞書が選んだ「今年の言葉」は、「post-truth(真実後)」で、世相を反映してかこの回は「虚」を使う作品が多く、若い人たちの共有する「気分」を感じました。そのような中、「馬を飼う」は、現実に散在する虚構性や実体のなさと、それらに血肉を与える言葉との掛け合いが巧妙で強い印象を残しました。身体感覚すらも確信できない現状を展開し、それとは対置されたかたちで最終的に象徴として置かれる「生きている馬」にすべての語彙が収斂されていく手法で、一見すると難しそうな単語を多用していますが、相互に相反する象徴的な比喩を鮮やかに使用していました。詩の構造は極めてシンプルであるため、読み手に言葉の重みだけではなく、爽快感を与える作品となっているのも特徴です。時代精神における実体のなさを表現するには、逆説的に実体化に迫る言葉の力を使う必要があるように思いますが、その意味でとても言葉の力を感じさせる作品になっていました。

高校生に読んでほしい現代詩作品

最近、詩で書き得るものと、書き得ないもの、さらに詩の言葉の伸長が何を示すのかに興味があります。近年、みなさんの創作コンテストへの応募詩も、詩誌の投稿欄でも、「その作品の適正な長さ/韻律」を把握していない場合が多く、いいフレーズがあるのにもったいないなあと思うことが多いので、アドバイスというよりは自戒もこめて備忘録的に。ついでに、高校生のみなさんは「詩は書くけれども現代詩作品は読みません」という人が多いので、現代詩作品を中心にご紹介させていただきます。

たとえば、次の作品(一部)を読んでみてください。

1.伊藤比呂美「母に連れられて乗り物に乗る」(『河原荒草』より)

私たちは、母に連れられて

乗り物に乗りました

乗って降り、また乗りました

車に乗りバスに乗り

それから飛行機に乗りました

またバスに乗り電車に乗り車に乗りました。

 

着いたところは、声がこもる建物でした、つめたい廊下でした、人々はぞろぞろと集まってきました、とまどっているような顔をしていました、これから起こることにとまどっているような顔をしていました、人々はすわってきょろきょろと見わたしました、室内は暗くなり母のすがたがうかびあがりました

 

母がぺたぺたとささやきました

〈さてどうしたよいものか〉

母がしみだらけの手で、床をたたいてつぶやきました

〈うまれてこうしてここに生きているものを〉

母が半目になって、乳をもみしだいてののしりました

〈うまれたときからなんぎでした〉

詩集の冒頭を飾る作品。初連のリフレインと、二連の続き書き、さらに三連のリフレイン……の構造がだんだん長くなりながら交互に響く構成になっています。とても舞台的で、本人の言葉の肺活量とでも言うべきものが長くないと、続かない手法です。普通、こういうダラダラ(とは、伊藤さん本人がおっしゃっていたので……すいません)した書き方をすると、詩は詩らしい言葉の切り結び方、立ち上りが出来なくなってしまうのですが、それで壊れずに最後まで続いていくのが不穏で魅力的な作品です。

上記の伊藤さんの作品を読んだ後、次の作品を読んでみてください。

 

2.中原中也「曇った秋」

或る日君は僕を見て嗤ふだろう、

あんまり蒼い顔をしてゐるとて、

十一月の風に吹かれてゐる、無花果の葉かなんかのやうだ、

棄てられた犬のやうだとて。

(中略)

コホロギガ、ナイテ、ヰマス

シウシン、ラッパガ、ナツテ、ヰマス

デンシヤハ、マダマダ、ウゴイテ、ヰマス

クサキモ、ネムル、ウシミツドキデス

イイエ、マダデス、ウシミツドキハ

コレカラ、ニジカン、タツテカラデス

ソレデハ、ボーヤハ、マダオキテヰテイイデスカ

イイエ、ボーヤハ、ハヤクネルノデス

ネテカラ、ソレカラ、オキテモイイデスカ

この作品も、ダラダラしています。中也の作品は、『山羊の歌』『在りし日の歌』などに所収されているものが有名ですが、通常はこんな手癖で書いたようなダラダラ感はなく、むしろきびきびと切断されている作品が多いです。推敲をあまりしていないのか、あえてその余情をダラダラと残そうとしたのかは不明です。   

「ダラダラ書き」は、言葉で書き得るものの可能性を探り続けて行く感覚が濃厚になります。この書きからは、伊藤さんや中也のようなとてつもなく力のある書き手なら相応に素晴らしい作品になるのですが、中也ですら良作は、潔く言葉への未練を断ち切ってか(?)とても切り込まれています。

たとえば、「骨」

ホラホラ、これが僕の骨だ。

生きてゐた時の苦労に満ちた

あのけがらはしい肉を破つて

しらじらと雨に洗はれ、

ヌツクと出た、骨の尖(さき)。

 

それは光沢もない、

ただいたづらにしらじらと、

雨を吸収する、

風に吹かれる、

幾分空を反映する。

……全然違いますよね。潔く、いわゆる中也的な思い切りの良さが活きています。そもそもこの「骨」という題材は、口語自由詩というよりは俳句のように雑味なくモノトーンの世界です。生きているときのダラダラした生への執着を捨てきった感じがします。昔中也を読んだとき、戦後の現代詩も戦前の口語自由詩もとくに区別を知らなかったころというのもあり、「詩ってこれくらい思い切って言葉を刈り込むのが素敵」だと思っていました(それなのに、私の作品はどうなんだ……というのは横に置いておいてください)。 

でも、そうではない言葉の使い方の魅力もあるのだと思ってしまったのが、上述の伊藤比呂美さんの作品でした、『河原荒草』は比較的最近の作品(2004年)ですが、たとえば『テリトリー論2』(1988年)の「カノコ殺し」「カノコのしっしんを治す」など、妊娠出産子育てにまつわる呪わしくも魅力的な作品は、詩の読み方を(そしてその後の書き方を)変えてしまいました。

たぶん、これは現代詩の一潮流でもあり、タイプは異なりますが切り込まれるよりは伸び広がっていく傾向の系譜はあるように思います。たとえば、次の作品群のように。

 

3.小笠原鳥類「生きている印刷物」(『テレビ』より)

この本は「カラーですよ」予告され

暖かい画面の布のような鰭のような泳ぐ泳ぐ写真に——あの、

青い魚を大量に泳がせる。周囲に青い水蒸気が漂う。

青い写真は泳ぐ水面に似ていたのです。水面はエイに似た

軟骨の魚たち 並んで、妖精のように森を泳ぐようだ。人は

水面でのスポーツについても考えるだろう。画面には

色素の点・点が並べられる。エイは草食の多い生き物

水葬を並べるような——麗しい熱帯魚の写真図鑑が!

一連書きで書かれたこの作品ですが、この詩集の中では一行一行が短い部類です。意味の連なりを断ち切り、ただ印象のみを鮮やかに並べていった作品ともいえます。通常、このように散文的な書き方の作品で印象だけを並べていくのは難しいのですが、小笠原さんの作品は絶妙な配分でこれを難なくやっているのが特徴です。

 

4.渡辺玄英「浮遊(フユー)」(『火曜日になったら戦争に行く』より)

「たこやきさん太郎」を

買ってみますと

夜空に星です。

(たこやきやさん太郎はソース味の

駄菓子ですわたなべはコンビニの

片隅で出会うのですこんにちは)

わたしはソースのにせもの たこのにせもの

でも、ゆるされていますこんにちは

青海苔の匂いが天の川まで漂っていくと

知らないことでも思い出します不思議

お祭りの金と赤

金魚すくいのユーレイたち

わたしが甘い見世物

ゲームやアニメなどのガジェットがよく注目される渡辺さんの作品ですが、創作コンテストに応募する作品にも通じるような、現実の虚妄さについて不思議に明るい浮遊感を漂わせながら書くのが上手く、それが魅力ではないかと思います。

 

5 蜂飼耳「ゆえに、そこにそらの」(『顔を洗う水』より)

振り返るときの

仕方をまちがえ

顔という顔は汚れている

 

この世への参加を横へすべらせ

いちいち確認をし

うなずいた記憶のない列にも

加わっているいつのまにか

「いい」とか「やだ」とか

「はい」「いいえ」

そのいちいちに

顔の向く、志向する先、認識する先、その「仕方」や「確認」は確信されずとも了解され、「居ながらに遠ざかる」と続いていくのですが、この距離感と言葉と発話(そしてのずれ、ずれ、ずれ……)。身体が反応する言語外の意思表示すら繋がり得ないという残酷な現実が、淡淡と書かれていきます。その距離感をも「あらう」ことができるのだろうか、などと考えつつ。

 

6最果タヒ「恋文」(『死んでしまう系のぼくらに』より)

死がわくとき、その頭上のあめつぶに、しろいカササギ

が一羽とまること、てんという足音がちいさく響くこと

に、あまりにも騒がしい葬儀の中で、人はいつまでも気

づけづにいる。死の周囲はいつでもうるさく、喧噪。粗

い粒子の会話がゆきかい、しんだひとに近しいひとほど、

口をつぐむ。えいえんの沈黙を中央にして。

この詩集はまさに「死」をタイトルに持って来ているのですが、それ以外にも最果さんの作品は、薄く折りたたまれたような、細かな死の破片のようなものを鏤めた印象のものが多いなあと思っていました。考えたら私たちの細胞も日常的に死んでは入れ替わり、思想も趣味嗜好も死んでは入れ替わり、毎日毎日私たちは「死んでしまう系」なわけですが、最果さんの作品はそれらが砂金のように細かくきらきら降り混ざってきて、不思議な陶酔感あふれる視角が現れる気がしてしまいます。

 

7藤原安紀子『フォ ト ン』より

くちごもり、かけがえのない名前をけんめいに叩きながら

ムウムウコチを出発する青い杖の子ども。天上はまるく、

ここからは宙芯があるとのぞめ発音の練習をしながら接続を待っている。

ポッケにはまだつうじない呼びかけ、でも、おおきくなるこの樹も、この葉も。

帆かけ舟の号令を信じて一通のなつかしい手紙を折りたたむと

不安げなきみが覗きこむ。ぼくは目を上げて、復習し憶えたこころを、

いおうとして母音の順序をまちがえた。

これも言葉と発話の関係を、さまざまな象徴を織り交ぜて描いた作品です。子ども。言葉が出てくるときの意思や力の源泉は、たしかに子どもが象徴する生命力そのものかもしれません。そういえば、自分の子どもが言葉を獲得していく中で、最初は「音」や「韻律」、「調子」に反応していたのが、次第に「意味」に反応するようになっていったのを思い出しました。原初的な言葉への意思をゆるやかに、でも強い胆力を感じます。

まだまだ魅力的な作品は多々ありますが、今回はこの辺で。

まずは、現代詩作品を1篇でも多く読んでみていただけると嬉しいです。

第26回高校生創作コンテスト募集要項はこちらでチェック!

 
【みなした・きりう】
詩人・社会学者。1970(昭和45)年神奈川県生まれ。早稲田大学大学院社会科学研究科博士後期課程単位取得満期退学。2002(平成14)年から、水無田気流の筆名で思潮社の『現代詩手帖』に詩作品の投稿をはじめ、2003年に第41回現代詩手帖賞を受賞。2005年に『音速平和sonic peace』(思潮社)を出版、翌年に同作で第11回中原中也賞受賞。平成二十年、『Z境』で第49回晩翠賞受賞。また社会学者としても活動し、学術論文の執筆などを行うほか、評論に『シングルマザーの貧困』(光文社新書、平成26年)、『「居場所」のない男、「時間」がない女』(日本経済新聞出版社、平成27年)等多数。2013年度朝日新聞書評委員に就任。2016年4月より國學院大學経済学部教授。