【目次(TOP)】【最優秀賞】【優秀賞】【佳作】

 

【 最優秀賞 】

最優秀賞 「あるく桜前線」 黒須 さくら (東京都立三鷹中等教育学校 3年生) 

  加堂先生は歩く桜前線だ。先生が歩くと道ゆく花が綻ぶ。先生が歌うとつぼみが芽吹く。あと歯が花でできている。どうして「そう」なのかは、遠慮して聞くことができない。
 少なくとも先生は、とりあえずはちゃんとした生物教師をしている。おっとりした口調だが、がたいが良く声も渋い。新入生は口を揃えて「白衣を着た体育教師」と勘違いする。
 僕たちのクラスに加堂先生がやってきたのは、担任が産休に入ったその代打としてだった。始業式の日、その前日に雨でほとんど散ったはずの桜は、校歌斉唱の途中で新たにつぼみをつけ、あっという間に開花してしまった。僕たちは好奇心を抑え、バカ真面目に歌っている新担任をちらりと盗み見た。どうしてそんな不思議なことが起こるのだろう、と時代錯誤な騒ぎ方を僕たちはしない。それでも気になるので加堂先生をまた横目で追う。ただでさえ大きい口をさらに開けて歌っているので、口の中の歯――――花――――がかなり見える。ピンクや黄色や淡い紫のカラフルな口内に僕たちは安堵した。悪い人ではなさそうだ。
 それからというもの、やたら形も色も良い花があちこちの花壇で散見され、窓から風が吹き込むと必ず何かしらの花びらが届くようになった。十中八九担任の不思議な性質によるのだが、特に害もないので皆陽気に過ごしていた。ある時女子がそれとなく「教室のチューリップも可愛いけど、新しいお花も見たいですね」なんて言った時、厳つい体育教師もどきは、
「そうだねえ、違うお花も見たいよねえ」
 とぼんやり笑った。さすがに先生は皆の前でマジックショーなどしないだろうと高を括っていると、不思議な芳香が僕たちを掠めた。あろうことか白衣のマジシャンは、どこからともなくユリの切り花を取り出し、さっと花瓶に生けてしまったのである。以来僕たちは先生の特質との距離感を掴みかねている。
 加堂先生の「花」のこと、僕たちはどこまで聞いていいんだろう?

 クラスメートは「直接的な発言は控えるが、先生と花の話を楽しむ人」と、「彼の地雷を踏まないように、普通の人間として接する人」に二分した。前者にはコミュニケーション能力の高い男子か、女子が多い。僕は後者だ。とりわけ植物に興味もないし、水やりなんて奇妙なこともあまりしたくない。
 ところが学級委員の肩書きを背負った僕を、加堂先生はたいそう信頼しているらしい。
「僕ね、パンケーキ、食べてみたいのよ」
 ある時白衣の体育教師はそう告白した。パンケーキというチョイスにも驚いたが、僕は「食べてみたい」の方に気を取られていた。この人、「食べる」ことができるのか。
 というのも、あの「歯」でどうやって咀嚼するのかさっぱり見当がつかないのである。そもそも加堂先生が何か食べているところを見たことがなかった。水は飲むようだが、僕たちはてっきり、光合成か何かで腹を満たしているのだと思い込んでいた。となると、あの花でできた「歯」が歯として機能するのか聞かなければならない。どうにかして遠まわしに聞けないものかと悩んで口を開いた。
「甘いもの、お好きなんですか」
「そもそも噛めるかわからないんだけどねえ」
 突然の核心をついた返答に、どきりとしつつも安心し、そしてまた焦った。噛めるかわからないならなぜ食べようとするのか。花の蜜は好き、と先生はふんわり笑っている。ここで質問を重ねると失礼かもしれないと思い、さりげなく話をそらした。
「そういえば先生の歯、綺麗ですよね」
 すると先生は例の大きな口をあんぐり開けて僕に見せた。無理やり歯医者の跡取りにされたみたいな気持ちになった。
「奥歯からね、カーネーションでしょ、バラ、アネモネ、ストック、フリージア、スイートピー、ベゴニア、シクラメンだよ」
 歯にしては本数が少ないな、と気づいた。花が大きいためであろう。小ぶりな咲き具合とはいえ、真っ赤なバラは僕の歯の三本分くらいあった。上下の歯は種類を揃えた色違いになっており、咬合は問題ないとみた。
「三島くん、歯医者さんみたいだねえ」
 そういって患者が笑い、やっと大きな口を閉じたので、僕は診察を終了した。
「食べたらお花、傷つきませんか」
 すると加堂先生は一瞬言葉を詰まらせた。しまった、と僕は息を止める。これだけ多様性の時代になって、先生のような不思議な体質の人が増えても、大っぴらに言及することはやはりタブーであるのだ。
 ところが加堂先生は世慣れした様子で、生えてくるから大丈夫、と答えた。
 処世術――――僕はそう思った。正しい日本語かどうかわからないけど、これが「慣れ」なのか、と素直に尊敬した。彼もその不思議な体質に悩んだことがあるに違いない。気を遣い遣われるうちになんだか壁ができてしまうものである。僕は先生に興味を持った。
「わかりました。行きましょう、パンケーキ」

 休日、学校から離れたところのパンケーキ専門店で待ち合わせをした。白衣ではない加堂先生を見るのは実に初めてだった。先生はにかりと花畑を見せて笑う。「楽しみです」
 筋骨隆々の生物教師は、道中パンケーキ、パンケーキと口ずさんでいた。それに呼応するかのように、街を彩る花々が潤ったようにきらめきを増す。つられて歌いそうになった。

すっきりとおしゃれなパンケーキ屋の雰囲気に予想される通り、女性客ばかりだったので、さすがの加堂先生もどぎまぎしていた。二名様ですかと聞かれ、はい、と僕が答える。
「三島くんは場慣れしていますねえ」
「うち、女系なもので、姉も妹も多くて」
「そうなんですねえ」
 水とメニューが届く。先生の心を捉えたのは、さくらんぼと食用花がカラフルに乗ったパンケーキだった。なんだか共食いのような気がしてならず、そわそわしていると、先生がこちらに視線を寄越した。僕は弁明する。
「その、先生って、花食べて大丈夫かなって」
 先生は、食べますよ、ときょとんとした。
「人魚だって魚を食べるでしょう」
 そう言って目の前の担任は、まっすぐ僕を射抜いた。予想外の鋭さに、いや、まあ、そうなんですけど、と僕は言葉を濁す。
「きみはそうやって気を遣うけど、きみのこと全く教えてくれないわけじゃないのね」
 加堂先生はメニューに視線を戻して続けた。
「なんかねえ、俺のお花のことさ、すごく気を遣ってくれるのわかるのよ。必要以上に踏み込んでこないっていうか」
 水の入った二つのグラスに、花びらの入った氷がからんと音を立てて現れる。
「でもね、話してるうちに、きみの方が踏み込ませてくれないみたいな、そういうのを感じるんだよね。昔嫌な思いをしたのかなとか考えちゃってさ。こんなご時世だからねえ、怖がられないのはいいけど、変な壁ができちゃうのも、お互い苦労するよねえ」
 お互い、と先生は断言した。そのとき店員が近づいたので、先生と違うパンケーキを頼んだ。店員が去って、僕は先生に向き直った。
「いつからわかってたんですか」
「チューリップの水やり当番のときかな、土に水かけるように教えたでしょ。きみはかなり上から水やりしてたのに、お花どころか茎も葉っぱも濡れてなかったんだよね」
 気づかれていたのか、と僕は驚いた。高い位置から水やりする皆に倣い、同じ高度から土だけが吸水するよう調整していたのである。
「面白いことができる子だなって思ったよ。でも隠してるみたいだし、あんまり触れてこなかったんだけど、それはきみなりの優しさだったんだねえ」
 優しさ、と僕は反芻した。大きなパンケーキをトレーに乗せた店員が近づいてくる。
「お待たせしました、チェリーとエディブルフラワーの――――あっ」
 店員が姿勢を崩した。パンケーキを死守したトレーから、グラスが身を投げ出す。しかたなく僕は口を開けた。先生よりも大きく。
 溢れるはずの水がみるみる僕の口に吸い込まれるのを、先生はにこにこ見ていた。店員は少し驚いた後、丁寧にお礼を言って戻った。
「ね、大丈夫でしょ。世界は広いんだから、隠さなくてもきみを受け入れてくれる人はちゃんといるんだよ」
 僕はそれには答えず、塩っけがなくて飲みにくかったです、と返した。
「塩っけと言えばね、実はね、きみちょっと磯の香りがするのよ」
 え、と思って腕に鼻を寄せた。自分の匂いはわからない。園芸に塩害は天敵だと思い出して不安になったが、担任は平気そうである。これでばれたのかと呆れてしまった。
「世界って広いんですね」
「でしょう?」

 先生は結局、小麦粉の塊を噛めなかった。フラワーだからいけると思ったんだけどなあ、と寒い洒落をかましたので笑ってしまった。彼は密かに持ち出したさくらんぼを丁寧にハンカチにくるんでいた。発芽させるつもりらしい。歩く桜前線は楽しそうだった。
「まだなんか食べる?」
 桜前線はスーパーの前で立ち止まった。入口の花コーナーが輝いている。パンケーキみたいだった。僕は桜前線を見上げて言った。
「トレーいっぱいのお刺身、食べたいです。たんぽぽなら先生も食べられるでしょ」

 

最優秀賞の受賞コメントは近日公開!

 

【目次(TOP)】【最優秀賞】【優秀賞】【佳作】