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【 最優秀賞 】

最優秀賞 「ゴッホの書いた世界と見えない赤信号」
鈴木 陽菜(兵庫・賢明女子学院高等学校3年) 

街路樹はすっかり秋色に染まって、吹き付ける風も随分と強くなってきた。風が木の葉をさわさわ揺さぶっているのが耳にひやりと聞こえる。濃厚な秋の気配の裏には少しだけ冬が覗いていた。
 こうして一緒に歩くのも久しぶりな気がする、なんて考えながら私は弟の横顔を盗み見る。
 「なに?」
私を見上げた弟は怪訝そうな顔で瞬きをした。本当に同じ親から生まれたのかと疑問に思うほどに大きな二重の目。昔はよくこの目を妬ましく思ったものだ。
「ううん。」
 誤魔化すように言ってから、わざとぐしゃぐしゃと頭を撫でる。
「大きくなっちゃったなぁ、って。」
 戯れ合うように手を伸ばしあって、それから弟は初めて頬を緩めた。笑うと糸のように細くなる目はどうやら私とそっくりなのだそうだ。少しだけ年齢より幼く見える笑顔が、何故か不意に小さい頃の弟の顔に被った。
 「今、身長いくつよ。」
「159」
得意げに言った弟はにやりと笑う。
「姉ちゃんは?」
「162」
「もうあと3センチだね。」
「まだあと3センチだから。」
 ザッと風が強く吹いて、前髪が乱れる。空はもう暗くなり始めていた。あたりが少しずつ暗くなるにつれて、ぽつぽつと街灯が灯り始めた。
「早く帰ろっか。」
 足を早めた弟の荷物がガタリと音を立てる。そういえば随分と重そうだ。
「持とうか?」
「いい、いつも自分で持ってる。」
手を引っ込めると弟は可笑しそうに言った。
「もう子供じゃないんだから。」
「そうだね。」
 向けられた私の微笑を見て思うことがあったのか、弟は不満気に顔を顰めた。
 車が一台も通らない道に2人分の足音が響く。そういえば虫の鳴き声もすっかり聞こえなくなった。今はただ乾いた風が時折服の裾を揺らしていくだけだ。チカチカと信号が点滅して、目の前で赤に変わった。
 「そういえばさ、なんでここの信号、新式になったんだろうね。」
 時間の流れに取り残されたような交差点の中で、新しくなった信号機だけが違和感を放っていた。
 「バツが見えるんだ。」
弟は赤いランプを指差してなんでもないかのように言った。
 「真ん中にバツ印があって、赤信号だってわかりやすくなってるんだよ。」
 そう言う弟の顔は信号が落とす赤い光で照らされていた。
 先天的に弟は赤色と緑色を見分けるのを苦手としていた。夕焼けも、紅葉も、美しさが良くわからないと、以前弟は言った。そうなのかと思ってその時はそれで終わったのだ。赤と緑が苦手。そうか、ちょっと考えれば信号も当てはまるとわかったはずなのに。
 「そっか。知らなかった。」
 正確に言えば考えたこともなかった。赤信号がわかりにくかった人がいたのだ。しかもこんなにも身近に。赤信号は赤信号。わかりやすくて然るべきだと思っていたのはただの先入観だった。
 「僕は全く見えないわけじゃないから、よく見ればちゃんとわかるんだけどね。ぱっと見わかりにくいから。」
「今まではどうしてたの。」
「周りに人がいればその人に合わせる。誰もいない時はよく見て、それでももしわかんなかったら勘、かな。」
 弟は私を見上げた。
「やっぱり姉ちゃんには見えないんだ?」
 目を凝らしたがやっぱり私には赤い光しか見えなかった。
「うん。見えない。」
もう一度視線を戻すと、信号は青に切り替わった。
「あっ、青になったよ。」
「知ってる。」
荷物を担ぎ直して弟はゆっくり歩き始めた。
 「信号って青色って言うじゃん。あれって僕以外はマジで青に見えるもんなの?」
「緑…緑だと思う。あれは。」
「でも青信号だよね。」
「確かに。隣の芝は青いって言うけどやっぱり芝は緑だし。文化的な問題かな。」
「やっぱりそうなのか。まあ青々とした新緑とかって言うしね。一文で矛盾が起きてるような気もするけど。」
 靴音が暗い道に響く。どこか遠くを見つめていた弟は唐突に口を開いた。
「ゴッホの絵、見たことある?」
 急に話が飛躍しがちなのは弟の癖だ。急に突拍子もないことを話し始める弟に、小さい頃は困惑していたけれど、それも随分慣れた。
「糸杉…とかなら。」
「どう、思った?」
「どう…って。上手だなぁとか?」
 何かを考えるように弟は真っ直ぐ前を見ていた。
「ゴッホがどうかしたの?」
「ゴッホの絵ってさ、教科書に載ってるでしょ。」
「うん。」
「初めて見た時ビックリしたんだ。」
 光って見えるんだ、と弟は何かすごい秘密を打ち明けるように私に囁く。
 「それからネットで調べたらやっぱりゴッホは色弱だったんじゃないかって言われてた。どうやらゴッホや僕と、姉ちゃんとは見え方が違ってるみたい。」
 ―青と黄色がね、目に飛び込んできて、パッとそこだけ光って見えるんだよ。星とか、店先から漏れる光とか、本当に光ってるみたいに見えるんだ。それでね……
「絵とかあんまり詳しくないからわかんないけどさ、初めて絵を見て感動したんだ。これがもしかしてお姉ちゃんたちがみえてる世界と同じなのかもって。でも、そのまま友達に言ったらよくわかんないって言われた。普通でしょって。」
 弟は咀嚼するようにゆっくりと言葉を紡ぐ。そういえば以前、話に脈絡がないと私は彼を咎めたことがある。自分は話したいことの背景を知っていても、相手は知らないということはあるのだと。だからなのか、彼は内にある言葉未満の思いをゆっくりと言葉に昇華していく。
 「いわゆる普通の人はさ、今自分が見えてる世界はもしかしたら本当の世界の色じゃないかもしれないなんて考えた事ない人もたぶん結構居てさ。でも、ゴッホが描いたのは多分、ゴッホが見えてたものなんだろうなって。そう考えると世の中の大多数の人は本物のゴッホの絵を見たことがないんだ。青信号が緑に見える人もいる一方で、そもそも色の違いがよくわかんない人間もいる。でさ、赤信号が赤信号に見えない人もいれば、見えてるのに見えてない人もいるんだよ。」
 なんか何が言いたいのかよくわかんなくなってきたと、弟は何故か泣きそうに笑った。
 「色々考えてたんだね。」
弟は小さく息をついて独り言のように呟いた。
 「姉ちゃんが信号無視の車に撥ねられてからだよ。そこからずっとこんなこと考えてた。でもやっぱりわかんなかった。」
 姉ちゃんはさーなんで死んじゃったの。
 弟の口ぶりは別に何かを責めるような色はなく、ただ何かを悔やむようにその大きな目が揺れた。
「大きく、なったんだね。」
「もうあと3センチだから。」
「まだあと3センチだね。」
 こくりと頷いた弟は迷子になった小さな子供みたいで、思わず抱きしめたい衝動に駆られる。
 「帰らなきゃ。母さんが心配する。」
「そうだね。」
 数歩先をいく弟の背中は確実に大人の体格に近づいていた。記憶の小さな弟は、いつの間にか一人で歩き始めていた。それが無性に誇らしくて、愛おしくて、少しだけ寂しかった。
 遠ざかっていく弟を見送る。もう感じないはずの胸の痛みに気づかないフリをして、私は笑顔を浮かべ続けた。弟は一度も振り返らずに真っ直ぐに歩いて行った。
 そっか。大きくなったんだよね。
 多分だけど今、私は泣いているんだろうと、訳もなくそんな気がした。

受賞者コメント

今まで自分が書いた創作物を誰かに見せた事がなかったので、喜びよりも驚きや気恥ずかしさが先行しますが、私の作品に目をとめ、評価してくださった審査員の皆様には心からの感謝を申し上げます。本来ならば自己満足の域を出なかったはずのものを応募するまでに至ったのは、小説が私自身への一種の戒めを込めたものだからです。情報通信技術が発達し、多様性が認められつつある今日、私たちは自分とは異なる価値観や背景を持った人を知ると言う機会においては、随分と恵まれた環境に置かれているように思います。そんな中、「知識」として所謂マイノリティーと呼ばれる方々や、ハンデキャップを持つ方々が安心して暮らせるよう支援する社会的取り組み、もちろん今回キーワードのひとつになる「色覚異常」を持つ方々の存在も知っていたはずだった私が実際に「信号の色がわかりにくい」人がいると知った時の衝撃は大きなものでした。知ることで得た「知識」は、相手を理解しようとした時に生まれる「想像力」と結びついて初めて意味を成すのだという学び、そして自らの目に見えるものが全てではないと言う改めて得た気付きを誰かと共有してみたいという気持ちから今回、拙作ではありますが応募させていただきました。
誰にも教わったことがない「物語を創る」といった初めての試みは、想像以上に難しく、エネルギーの要るものでしたが、ひとつの作品を最後まで書き上げるという体験は、振り返ってみればとても楽しく有意義なものであったと思います。実際に作品を作るという体験を通して、どのようなものであれ創作物は作者の労力と工夫、そして強い思いの賜物なのだと言うことを知りました。
来春から始まる大学での学び、そしてその先の人生を通して学び続け、何らかの形で誰かの心に寄り添える様な人間になりたいと考えています。
今回の作品は読み返すと改善したいと思う箇所も多く見られる為、いつか満足のいくものを作れる様になりたいと思っています。私がそうであった様に、もしも応募を迷っているのならばぜひ応募してみてください。

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