インタビューに答える矢貫選手 (幡原裕治撮影)

プロ野球・北海道日本ハムファイターズの矢貫俊之投手。甲子園で投げることを夢見ていた高校時代は、一度もベンチに入れず、スタンドからチームを応援する日々を送っていた。 (手束仁)

実力を発揮できない日々

甲子園に出場して、プロ野球選手になる――。多くの野球少年が思い描く夢を抱き、古里の福島県から宮城県の名門・仙台育英へ進学した。ところが、入学早々に挫折を味わう。
 「同級生だけでも40人くらいいて、(野球の実力で)誘われて入った選手以外は、最初からスタートラインが違った」
 優秀な選手とは異なる練習メニューに取り組む日々が続いた。
 それでも他県から入学したこともあり、1学年で20人前後しかいない寮生になれた。
 しかし、寮生活は気を使うことが多く、野球以外のことで疲れていた。「上級生になれば、公式戦で投げられるかな」という希望を持っていたが、試合に出ている選手との実力差は縮まらず、コーチから直接指導を受ける機会は少なかった。
 何とかしてうまくなろうと自分なりに練習を重ねたが、オーバーワークになることも多く、けがが増えた。たまに練習試合で投げる機会を与えられても、万全の状態ではないことがほとんどだったため、認められることもなかった。

もっと野球がしたい

3年時、部は春の選抜大会で準優勝を果たしたが、自身には悔しい思いしかなかった。試合で応援することしかできず、満足に野球ができなかったのに喜べるはずがなかった。
 その代わり、無性に「野球がしたい」と思うようになった。
 「試合に出られなかった分だけ、『やっぱり野球をしたいな』という気持ちが強くなったんです」
 卒業しても野球を続けようと佐々木順一朗監督に相談した。
 「僕はどこ(の大学)だったら、投げられますか」
 紹介されたのは常磐大。野球をやりたい一心で、思いを大学野球へつないだ。残りの高校生活で公式戦に出場できる可能性がないことは分かっていたが、野球を続けることができる希望を胸に、練習に励んだ。
 「自分は本当に野球が好きなんだと気付くことができました」
 試合に出ること以上に、大事なことを見つけた高校時代だった。

やぬき・としゆき
1983 年12 月15 日、福島県生まれ。常磐大から三菱ふそう川崎を経て2008 年にドラフト3位で日本ハム入り。190㌢の長身を生かした最速150㌔のストレートとキレの良いスライダーを武器に活躍。昨シーズンまでの4 年間で86 試合に登板し4勝6敗。