工藤さんの弁論原稿「輝け母親たちよ。輝け社会よ。」

「私は、ずっと社会の第一線で働き続けたい。そのためには、なにかを犠牲にしても良い。」私がそう思うようになったのは、両親の働く姿を見て育ったからです。

私の父は教員。母は保育士として働いています。

家族の団らんの時間は朝ご飯の時だけでした。週末は、部活の指導や土曜保育での出勤が当たり前。そんな日々を過ごす内に、両親は私よりも仕事の方が大切なのではないかと感じ始めました。

小学校の入学式。ぴかぴかのランドセルとキラキラの笑顔が輝いたあの日。父は職場での入学式、母も入園式がありました。それからというもの、学校での避難訓練の迎えも、参観日も、体調が悪くて早退する時も、親が学校に来てくれることは無く、いつも祖母が来てくれました。そんなとき、祖母は私が寂しい思いをしないようにいつも気を配ってくれました。

ある日の夕方、学校で嬉しいことがあり、母に一刻も早く伝えたかった私は何度も何度も口に出して覚えた母の職場の電話番号に、電話をしました。しかし、電話をしたことを祖母が知り、「お母さんは子どもの命を預かる大事な仕事をしているから、心配かけちゃいけない。」と叱られましたが、私は納得がいきませんでした。

なんで? なんで私のお母さんなのに、他の子のために私が我慢しなければいけないの? どうして?

そんな疑問を持ち続けた小学校低学年の頃でした。我が家には生みの親、育ての親がいると冗談を言います。それぐらいに母は家庭より、育児より、仕事優先です。ですから親に対して、反抗する日々が続いていました。

17歳の私が知ったことは、母が何度も私のために仕事を辞めようかと悩んでいたことであり、祖母が母に心配掛けないように私の手を離すことが出来なかったことでした。親も苦しんでいたことに、ようやく気づきました。母が管理職になり7年経ちました。保育園に通う全ての子どもと保護者、そして、そこで働く先生方を大切にしています。そんな母の背中から「母親と仕事の両立」は決して甘くなく、現実は厳しいということを知りました。それと同時に、父親が、父親としても夫としても、また教師としても、様々な役職を通して社会と向き合っていることも感じました。私は、両親の仕事の犠牲者では無かったのです。

ある世論調査によると、「子育て期に母親が働くことに対する社会の目は冷たいと思う。」そして、「母親が子育てをしながら働くための環境は整っていないと思う」と答えた母親は大多数いることが分かりました。そこで、国は平成28年度「仕事・子育て両立支援事業」を創設しました。これにより、「夜間や休日での出勤」など、母親の働き方に合わせた保育が出来るようになりました。大勢の母親の声が国を動かした結果、社会制度が見直され、母親の働き方改革が進んで世の中が動き始めたのです。表面的上、働く母親は、安心して育児と仕事の両立が出来るようになったかに見えます。

しかし、母親の声は届いていても、子どもたちの声はどこまで届いていますか? もし、母親の仕事内容を見直し、母親の社会進出を促進しようとするならば、それは子どもに聞くべき問いであり、大人が話し合って決める問題ではないと思います。母親を想って作った制度が「大人の都合」になってはいけません。

1990年に国連が発効した「子どもの権利条約」を日本が同意してから25年が経ちました。子どもの権利を守り、手助けすることが親の役目だと認められました。しかし、2010年 子どもの権利を十分に守る政策ができていないと、日本は国連から勧告を受けています。

日本も子どもの人権を侵害する国だった。ということです。

なぜ条約ができても、子どもが守られる社会、子どもの明日が輝く日本にならないのでしょうか。それは、子どもの声が届いて無いからです。

子どもたちの本音を聞いてみませんか?子どもを取り巻く大人達が子どもは「1人の人間である」ということを認め、子どもの声に耳を傾けてください。

私は、親と一緒にご飯を食べたい。親と一緒に学校で合った嬉しい事を話したい。親と一緒に夜空を見て、星が綺麗だと言いたい。毎日どこかで起きる「家族の小さな幸せ」をみんなで守っていきたいだけなのです。 子どもが守られる世界は、頑張る母親も守られる社会です。

私は、子どもの考える働く母親の理想像を大切にしたいと考えます。母親は立派な仕事です。そして、母親というのは、子どもが居て成り立つ職業です。母親がどれだけ頑張っても、子どもがどれだけ願っても、彼らの考えを取り上げない限り未来が変わることはありません。「私は、ずっと社会の第一線で働き続けたい。」その思いに犠牲になるものなど、あってはなりません。

今の子どもがいつの日か社会を背負います。今こそ、子どもの声を社会へ届けるときなのではありませんか?