落ち込んでもいい へこんでもいい 前を向いて進もう

日本を代表するスラッガー、福岡ソフトバンクホークスの内川聖一外野手(30)は、大分工業高校出身。高校時代はけがに苦しみ、プロ入り後も長く苦境が続いた。大打者となった陰には、幾度もの逆境を乗り越えた懸命な努力があった。 (南隆洋)

大分工業高校1年の時、骨嚢腫という病に襲われた。左足かかとの骨が薄くなり割れ、痛みで立つこともできない。9月から3度も手術を受け12月まで入院。その後もリハビリが続いた。

足を固定され、寝たきりとなったベッドの上で考えた。「野球ができるってすごいことなんだ」

学校に通えるありがたみを感じた。これまで当たり前だと思っていたことの素晴らしさを病が教えてくれた。

ベッドのそばに幾度も仲間が来て、「また一緒にやろう」と励まし続けた。

2年生の夏、グラウンドに立ったが、足の筋肉は細り、足首も曲がらない。それでも「もっと、もっと真剣に野球に取り組むのだ」とグラウンドに立てる喜びに震えた。

内川選手の真剣さに、ウエートリフティング部顧問は「筋力復活メニュー」を作ってくれた。教科の先生は、冬、春の休みに補習授業をしてくれ、留年を免れた。

主将で4番ショートとなった3年生の夏、大分県大会決勝。中津工業に0-4とリードされた9回裏の攻撃前、ベンチ前で円陣をつくった。仲間が言った。

「ツーアウト満塁でお前まで回す。ホームランで同点だ!」

打順は回らず、ともに泣いた。「仲間たちの自分への信頼がうれしかった」。監督の父、一寛さん(現大分県立情報科学高校野球部監督)、1学年下の弟とともに目指した「一家総出で甲子園」の夢はかなわなかった。

短くも真剣に野球に打ち込んだ高校時代。ほかの選手の半分もグラウンドに立てない中で、高校通算43本塁打を放ち、横浜ベイスターズ(現DeNA)からドラフト1位指名を受けた。

プロでは守備位置を転々とし、規定打席に達しない〝準レギュラー〝 が続いた。

8年目のキャンプイン前、「今年、駄目だったら別の道を探す」と両親に言って家を出た。

母親は言った。「いいんじゃない。あなたがやれることを全部やって、納得したのなら」

「オレはやれることを全部やったのだろうか」。自問自答しながらキャンプ入り。オープン戦に入った3月、一人で練習しているとき、他球団から移籍してきたばかりのコーチの言葉に衝撃を受けた。

これまで猛練習で築き上げた「球を前でとらえる」自分の形を、「変化球で一番簡単にアウトになる方法だ」と指摘された。

「自分のバッティングに自信を持ち、一番の長所と思っていたことが、相手チームの目線から見ると、最大の弱点だったのです」

「引きつけて強く打つ」フォーム改造がスタートした。シーズンが始まっても全体練習開始1時間半前に球場に来て、コーチの投げるボールを打ち続けた。

その年の開幕間もなく、内海哲也投手(巨人)のチェンジアップを横浜スタジアムの左中間フェンス直撃の2塁打にした瞬間、「これだ!」と感じた。

この年、プロ野球歴代7位、右打者では最高の打率3割7分8厘。大変身を遂げた。 「レベルを上げていく上で、『不調』はいいものを与えてくれる。落ち込んでもいい。へこんでもいい。次にやるときは、必ず前を向いていこう」と自分自身を奮い立たせる。 自分の高校時代を振り返りながら、高校生に「今の瞬間を大切に。理想を思い描きながら、自分が今、何をしなければならないかを確認して行動してほしい」と訴えた。

大打者への道

 

2001年3 月、横浜ベイスターズでプロデビュー。08年、右打者史上最高打率。最多安打、最高出塁率も。以来シーズン打率3割以上をキープしベストナイン3回。09年はWBC日本代表として優勝に貢献。10年12月、福岡ソフトバンクホークスに移籍。翌年に史上2人目の両リーグ首位打者。チームの「日本一」の原動力となりMVPを獲得。今季、秋山幸二監督が現役時代につけていた背番号「1」を継承。身長185㌢、体重88㌔、右投げ右打ち。