審査員特別賞
幸せは対等な相互関係から
立命館守山高等学校 3年 荒川 朱暖

 

ベトナムの暑さを吹き飛ばすような明るい雰囲気に包まれた孤児院。昨年私が学校の研修で訪れ最も印象に残っている場所である。

この研修で私は以下の二つのことを気づき「世界の幸せ」について考えさせられた。

一つ目は、ベトナムの孤児院にいる子どもたちは決して可哀想な存在ではないということである。私は、この研修前に募金活動を行い、孤児院の子どもたちのために食料や衣服を寄付した。今思えば、私はあの時、孤児院の子どもたちが可哀想だからという理由で活動を行っていた。しかし孤児院を訪れた時、その考え方が間違っていることに気づかされた。なぜなら、孤児院は子どもたちの笑顔で満たされていたからである。私は、三歳くらいの子どもたちと一緒に遊んだ。彼らの多くが障がいを持っていたが、それを感じさせないくらい元気いっぱいだった。また、彼らは交流している間ずっと部屋中を走り周り、子どもたちの笑い声が絶えることはなかった。時には、私に抱っこしてほしいと飛びついてきたりもした。彼らの目は輝いていて私よりも遥かに楽しんで生きているように感じた。彼らと汗を流しながら遊んだ思い出は、私にとってかけがえのない宝物となった。

二つ目は、ボランティア活動を行う側と受ける側は対等でないといけないということである。私は募金活動を行い、寄付をした時、してあげているという気持ちが強かった。しかし、実際に孤児院の子どもたちと交流した時にそうではないことを実感した。私は、言語が通じない場所で子どもの扱いにも慣れておらず、どのように接したら良いのか分からなかったので不安だった。孤児院を訪れる直前まで体調を崩し、入院していたため、孤児院を訪れることはほぼ、不可能に近い状態だった。しかし、孤児院の「何か」に惹きつけられ、孤児院へ向かった。孤児院に着いた瞬間、孤児院の子どもたちが笑顔で私を迎え、一緒に遊んで欲しいと私の腕を握ってくれた時、不安は一気に消え去った。そんな中、印象的だったのはなんと言っても彼らの元気さである。彼らの無邪気で明るい姿から元気をもらった。しかし、元気をもらったのは彼らからだけではない。訪れた孤児院には水頭症を患う子どもたちもいた。彼らは自分で何かをすることはできない。もちろん話すこともできない。ただ一日中ベッドに横たわっているだけである。孤児院の職員の方も、彼らは死を待つことしかできないと言っていた。私はそんな彼らの手に触れた。その時彼らは全身の力を振り絞り、声を上げながら小さな力ではあるがしっかりと私の手を握り返してくれた。この時、私は彼らの病気に負けず必死に生きている姿に感動し元気をもらった。入院していた時に感じた「何か」は彼らの力だったのだろう。

これらの経験より、私は「世界の幸せ」のためには互いに影響を与え続けることが必要であると考える。なぜなら、一方的に活動を行うと上下関係ができてしまい幸せがどちらか一方に偏ってしまうからである。これを踏まえ、私は自分にできる「何か」を模索した結果、私は自らが中心となって、ともに研修に参加した友人たちと今年度の学校の文化祭で模擬店を出店し、その売上金をベトナムの孤児院に寄付することにした。私は今でも、辛い時には孤児院の子どもたちの笑顔、障がいや病気に負けず必死に生きている姿を思い出し、元気をもらっている。だから、この活動は決して私の一方的な寄付ではない。また私の活動は世界という視点で見れば微々たるもので、今すぐには「世界の幸せ」に直結しないかもしれない。しかし、水頭症の子が私の手を握った時の力が私を変えたように私の小さな力が「世界の幸せ」に繋がると信じてこのような活動を継続的に行っていきたい。

「幸せは一方的では得ることはできず、対等な相互関係があって初めて生まれるものである。」ということを忘れずに。